青い三角形部屋

「この異端者よ!」

マンガ表現の連続的空間(前篇)

最初は伊藤剛先生の「テヅカ・イズ・デッド」の感想を書きたかっただけですが、考えるうちにどんどん発想が膨らんでいき、マンガ表現論の著作をざっくり浚って自分の中の表現論を少し形作りしてみました。認知心理学の概念をいくつか借りたのですが、正確性保証できないので、あくまで表現論に転用した言葉として寛容に見てもらえると幸いです。

曖昧な「コマ」と「枠線」の束縛

漫画批評の原点と称される『漫画原論』で、四方田犬彦は「漫画たらしめているのはコマの存在に他ならない」と「コマ」を漫画の決定的存在と位置づけ、「その周囲をとり囲んでいるコマ線で」具体的に作り上げているものと定義した。(1) 夏目房之介は「コマの基本原理を読み解く」で、「コマ」を「目にみえるものとしては枠線ですが,マンガを時間的・空間的に分節する抽象的な機能」と定義し、具体的な枠線から離れて機能面から暗示的に捉えようとした。(2) しかし、井上康が批判したように、「機能する実有・実質は,一体何であるかが問われる」「夏目もまた,コマを実在的な,枠線による一定の領域としても捉えている」(3)と、機能として定義したものの「コマ=枠線が囲んでいる領域」という従来の図式から脱出できず、かえって混乱招いてしまった。

混乱の原因はおそらく、機能としての「コマ」の主体即ち実体としての「コマ」が不明なままのため、前者で後者を指示するしかないであろう。 では実体としての「コマ」を定義する困難は言うまでもないが、その原因は何でしょうか? まず、少女漫画を除くほとんどの場合においては、「コマ」は自明的なものであるーー明確な枠線で紙面を明確に独立した複数の領域に分節するーー「コマ=枠線が囲んでいる領域」といった図式は正しいといって良いだろう。 この図式は欧米においては日本よりも自明視されているように見える。Thierry Groensteen は「コマ」(panel)を漫画の基本単位とする理由について次のように述べた。

The panel is presented as a portion of space isolated by blank spaces and enclosed by a frame that insures its integrity. (4)

枠線で明確に取り囲んだこその「コマ」とされている。この図式はかなり固定観念のように我々が実体としての「コマ」への認識を束縛している。

しかし、少女漫画には「枠線が囲んでいない領域」が様々な形で大量に生まれて、図式が破綻した。 漫画として「時間的・空間的に分節する抽象的な機能」はちゃんとされているーー機能としての「コマ」は存在するが、図式で定義した実体としての「コマ」はそこに存在しない。 つまり、「時間的・空間的に分節する抽象的な機能」するのは「枠線が囲んでいる領域」だけでないことがわかる。 勿論その取り残された部分を「コマ」でない他の何かに定義するのも間違っていないが、夏目が意識したように、機能する実体を完全ある「コマ」にするほうがキレイだと個人的に思う。

夏目は「コマの基本原理を読み解く」の中で、「どろろん忍者」の1ページにあるすべての枠線を取り払ってみると(そういえばここは「コマを取り払った」と書かれて完全に「コマ」を枠線と同一視された)、読めないものになってしまうといった実験を試みた。(5) しかしその後に少女漫画を紹介する時には、「枠なしのコマ」という概念を用いた。では、なぜ「どろろん忍者」の場合では図像たちが「枠なしのコマ」として働けないのか? 「コマ」は「枠線」に束縛ながらも機能から見ると曖昧であるのは示したが、ここでもっと重要なのは「コマ」はあくまでも中間的な概念であり、その上に「枠なし」を付け足しても本質まで到達することが難しいであろう。 本稿は「コマ」よりも基本的な形式から出発して、認知心理学の概念を引用しつつ新たなマンガ表現モデルの構築を試みる。

空間の非連続性

夏目の論述から最も確定的な部分を抽出してみると、それは枠線が空間を分節する機能を有しているのであろう。 もう少し具体的に言うと、本来平坦な一つの紙面空間上に複数の異なる空間を心理的に形成させる機能である。 本稿はこの心理上に認識されている紙面空間の状態とその度合を「空間の非連続性」と簡約して表現する。

空間の非連続性を発生させる形式を代表的な枠線を含め、(平面、奥行)x(図形的、内容的)との4種類に直感的な分類が考えられる。 そう簡単にはっきりと分類できるものではない(むしろ分類できないかと思っている)が、便宜上この分類に沿って空間の非連続性を説明していくことにする。

平面x図形的

図 2.1

図2.1が漫画の1ページとした場合、読者は二人の人物図像が据える(現実のではなく人物が居る「ストーリー」世界の)物理空間をどのように見るのだろうか。 ページ全体を一枚の絵として、二人が肩を並べているように見えるのが一般的かもしれない。つまりページ全体が1つ連続的な物理空間となっている。 しかし図2.2のように枠線で二人の人物図像をそれぞれ囲んでみると、状況が一変する。 恐らく多くの読者は、枠線で取り囲まれた2つの「枠」(「コマ」を回避して枠線で囲んだ領域を「枠」と呼ぶことにする)を「ショット・リバースショット」のように認識してしまうだろう。 勿論背景などの人物の位置や向きを示す要素が存在しないため、別の人物配置と認識する可能性もなくはないが、それは内容的な要素や発達的な面があるのでここで追求しない。 重要なのは、枠線はある種形式的な作用を持ち、二人の人物図像が据える物理空間を別にし、本来連続的と見た物理空間を分断することができる。 もう少し精確に言えば、二人の人物が居る物理空間は同じものと認識するかもしれないが、それぞれの座標系が紙面の物理空間の座標系に対するアフィン変換行列が違うということである。 読者は、二人の人物図像が異なる物理空間に据えると枠線に示唆された上で、内容(人物の視線、表情など)と経験で「ショット・リバースショット」として認識してしまったと考えられる。

図 2.2

ここで言う物理空間はまだ「空間の非連続性」の心理的な「空間」ではない。物理空間を分節する前提として、物質性(ストーリー世界の物質を表彰する性質)のない枠線が記号として紙面空間を心理的に分節し、「空間の非連続性」を形成させている。 枠線が持つこの記号的機能は漫画特有のものではなく、人類共通な認知能力に由来するものかもしれない。 夏目は「『表現論』から二十年」で、1666年中村惕斎の博物図「訓蒙図彙」の中で現れた「コマ」の例をとり挙げて「空間の区分である」と述べた。 他にも有名な「天狗通」を含めいくつかの例が挙げられたが、この一例でも枠線の空間を分節する機能がもっと原始的である可能性が考えられるだろう。 直感的に言えば、人は1ページ1ページで複数の図像を読めば(1ページを1枚の画像と認識できれば)、小さい画像を1ページに詰めて線で区分するのも理解し難くない。 線に区分された領域は実質各々ページになっているとも言える(次節で引用する中田健太郎の「シール」という形象も直感的である)。 14世紀の『ヘントの祭壇画』(図2.3)は複数のパネルで構成され、それぞれのパネルには違う物理空間が描かれているのが見てわかる。 *1 勿論ここに大きな違いが存在している。祭壇画についてはまず物理的なパネルが存在してあって、その中に絵を描き足すと自然に違う絵にできるが、枠線は基本的に絵に先だって存在するといってよいだろう。 しかしこの違いをこのように捉える事もできるーーパネルの分節機能は受動的であるが、枠線は人が「パネルみたいなもの」を記号化し、能動的に分節機能を利用したと。 ここの「パネルみたいなもの」とは、絵の世界の物質ではない別次元のものということで、枠線で言えば物質性のない記号性である。

図 2.3 フーベルト・ファン・エイクヤン・ファン・エイク『ヘントの祭壇画』1432年

というのが「純粋」な枠線だが、一部欠ける枠線も同じように機能できる。 図 2.4 では図 2.2 の枠線を一部消したのだが、2つの空間に見えやすいのは変わらないであろう。 これについてゲシュタルトの法則で直感的に解釈してみよう。 まず漫画の読者がたくさん枠線を見てきた経験の助力も受けながら、枠線は閉合法則によって補完され、完全なる枠線を想起させれる。 次に、枠線に切り取られた人物図像にも閉合法則が働き、間接的に枠線による空間の分断を表している。 そしてどちらにとっても枠線が「枠線」として認識されることが前提となる。 図 2.4の場合、連続・類同・単純性などの法則で真っ直ぐで太い線と人物図像の線と2つのブループに分けられ、その非物質性的な形と読者の経験と合わせて、はっきりとした記号性を持つ「枠線」と認識されるわけである。

図 2.4

逆に以上のゲシュタルトの法則による作用を抑えることで、「枠線」の記号性を濁し、物質性との両義性を付与し、わざと空間分節機能を弱める・曖昧化させることができる。 単純に枠線の太さを人物図像の線に統一させるだけでも、キャラ図像とのグループ分け作用が弱まり、キャラ図像の一部と認知され物質性が生まれる傾向が高まる。 欠ける枠線に関する論考でよく引用されるのに、手塚治虫が『ぼくのそんごく』などで使用した「人物が枠線を突き破る」表現がある。 夏目曰く「線とは本来多義的なものだ。(中略)ただ読みの形式であるコマは、それを一義的に抑制することで秩序としての役目を果たすのである」(7)。 線に物質性を与えることで、本来完全なる枠線に補完する閉合法則が弱まり、記号性が抑圧される。 したがって空間の非連続性が抑圧されるーー本来はっきりと分断された2つの空間が連続的な空間に近づいていく。

いろんな手段で記号性を曖昧化させ得るということは、完全なる枠線を持つ図 2.2 と枠線なしの図 2.1 の間に展開された連続的な表現空間を表しているのではないだろうか。 とはいえ、図 2.2 と図 2.1 は決してこの表現空間の両端ではない。 両方ともで、人物図像間の距離を変更することで、空間の非連続性を増減することも考えられる。 図 2.1の人物図像間の距離を極端に増やすと、「ショット・リバースショット」に見えやすくなるかもしれない。 内容的な側面もあるが、形式的には近接法則の作用が考えられる。

ということは、枠線が持つ記号性が空間の非連続性をもたらす唯一の要因ではなく、図形的な特徴もまた暗示的な要因である。 *2 この表現空間は記号でない図形的特徴と記号を基底として展開された表現空間と考えられる。 勿論記号もまた図形的特徴が凝縮されたものであり、正確な分類にはなっていないのだが、記号までになれない距離のような暗示的な要素を包括するためにあえてこのように記述した。 Richard McGuire の作品『Here』(図 2.5)では、ほぼ連続的な物理空間*3上で、異なる色調で複数の領域を構成し、空間の非連続性をなし得ている。 色調は図形的特徴であり、その鮮明さから一種の記号とも言えるであろう。

図 2.5 Richard McGuire. Here. p.175 各枠の左上に時間(年)が書かれている

そしてこの例を通して改めて注意してもらいたいのは、物理空間と「空間の非連続性」の心理的空間の違いである。 前者が後者の非必要条件であることはこの例でわかるはず。

奥行 x 図形的

「アニメのセルのように重層する少女マンガ型コマ構造」と、夏目は少女漫画の「コマ割り」をアニメのセル即ちレイヤーに比類した。 ここで確認したいのが2つ、平面である紙面上にレイヤー構造は存在し得るのか?そして「少女漫画的」といった限定的な存在なのか? 平面上に2つの図像が重なったとすると、水平方向においてズレがなければ下にある図像も見えないはずが、 水平的ズレがある場合にしても、見えた部分の間に奥行き関係をどう捉えればいいのだろう? 要するに見える図像たちは必ず水平方向上で離れていて、それらの奥行き関係はどう論じ得るかと。 実は Thierry Groensteen が The System of Comics で大きな「背景」の中に小さいコマが含まれた一例を論じた時に、 小さいコマの枠線を背景図像の内部枠線とみなし、小さいコマと背景図像とは併置しているように解釈した。(8) つまり小さいコマが背景図像の上に貼り付けた(重なった)のではなく、背景図像に穴が空いてあって、小さいコマがぴったりと嵌められて背景図像と1つだけの平面を形成したと、理解できる。 ただのイメージだが、西洋の漫画表現論ではレイヤーが論じられることが少ない。 日本では論じられるが、少女漫画とセットとして論じられることが多い。

レイヤーの存在

まずレイヤーは心理的に存在するという結論を上げる。 ゲシュタルトの地と図法則を考えればすぐに結論に着くが、あえて閉合法則を考えてみよう。 背景図像に穴が開いたのだが、人は心理的に穴を補完してしまう。 補完された図像と視覚に見えた図像と重なって、自然に見えるのが上(前)、見えないのが下(後ろ)と認識してしまうだろう。 少し内容的な(内容物を認識した上での)補完を述べたようだが、形式的にも認知心理学の分野で研究されている。 例えばT-Junctionを代表とするいろんな線と線の接合のしかたであるが occlusion cues として機能すると以前から論じられてきた。(9) また、線でなく形状に焦点をあて、形状がそうなった原因に人は想像してしまうという研究もされている。(10) ということは、一部欠けたような図像に対して、人はその原因ーー「重なり」を自動的に考えるのである。 もう一つ直感的な見方を提示してみたい。人は2つの目で三次元を認識しているが(binocular cuesによる奥行き知覚)、一つの目を閉じても普通な環境なら三次元を認識できるはず(monocular cuesによる奥行き知覚)(11)。 なら、紙面からのbinocular cuesに抑圧されるかもしれないが、monocular cuesによる奥行き知覚の働きも存在しているであろう。 注意しておきたいのは、ここの分析は枠線に限らず、枠線なしの図像の間でも、線と線の間でも適用している。

中田健太郎は「シール」という形象を用いて図像の上に重なる図像を形容し、「三次元性とは異なるしかたで、二次元性が多重に認められる場所が開かれるのだ」と述べた。(12) 詳しく説明されていないが、恐らく「シール」やアニメのセルなどの媒体を基に考えられた性質であろう。 「上下関係はあるが距離はない」というふうに考えれば確かに三次元ならぬ多重の二次元だと理解できる。 明確な定義は中田にはされていないが、ここでは「距離」の有無を「三次元性」の基準にしておく。 しかし重なる図像の間に「距離がない」とは限らない、「距離がない」と言えるのは「シール」という概念が「枠線」で限定された「コマ」という概念・思考に根ざしているからである。 ちょっと前衛的な例を作ってみた(図 2.6)。 線だけを見ると、ほとんどの読者は1つ連続な空間を認識し、左の人物が右の人物の後ろにくっついて居るように捉えるかもしれないが、 二人がそれぞれ別空間にいて2つの「枠なしコマ」が重なったとも捉えれるではないだろうか? 灰色の地を加えたのはまさに後者の見方を強調するためであった。 例えバブルや擬音などでも、影をつけることで距離を与えることができるーーこれもまた物質性と記号性との両義性に由来するものである。 中田が思う「シール」という言葉は、記号性の強い形で囲まれ、明確に下にある図像と別空間を持つ図像を指しているが、 前節で論じた空間の連続性の曖昧さのゆえに、「シール」もまた曖昧でなければならないのであろう。 「多重の二次元性」を「シール性」とするのもいいが、漫画表現空間の全体を言うと、三次元性と多重の二次元性は混在するという結論に至る。

図 2.6

ただし一般的な三次元空間と異なるところはまだ存在する。 図形的な特徴がもたらした距離感はあくまで心理的なイメージのゆえ、互いに統一しない可能性もある。 具体例として線と線の接合の種類(XYT-Junction)は局所的に三次元的な印象を喚起すると認知心理学の文献で提示されている。 (13) また、レイヤーではないが(レイヤーの形にも描ける)ペンローズの階段も局所的な前後関係が全体において統一しない一例である。

そして多重の二次元性が「枠線」のように記号的な分節機能を持ち、空間の非連続性を発生させることができる。 しかし平面的な場合においての「距離」は物理的な距離とも紙面上の形式的な距離とも捉えられるが、 三次元性の「距離」は物理空間での距離を指し、レイヤーが物質性持たされたからこその性質であり、連続的な物理空間を前提とすると言ってもいいかもしれない。

レイヤリングの一般化

さて、レイヤー構造は「少女漫画的」といった限定的な存在なのか、という問題に移っていく。 以上の議論を踏まえれば、レイヤー構造はさほど限定的なものではく、枠線が重なれば現れるということは言うまでもないだろうが、ここでもう少し詰めたい。

中田はバザンとドゥルーズが論じてきた「フレーミング」の対概念として「レイヤリング」を捉えた。 (14) 前者の「フレーミング」理論の簡単にまとめると、バザンは絵画と映画との(物理的な)フレームをそれぞれ「フレーム」と「マスク」に区別して解釈したが、 ドゥルーズは(物理的な)フレームが異なるのではなく、フレームが画面と画面外との関係性において、絶対的と相対的との2つのアスペクトを持っていると考えたようだ。 それで中田はフレーミングの垂直方向に対概念として「レイヤリング」を提唱し、「シール」という形象を利用した。 しかし、レイヤリングとフレーミングとは異なる位相の概念で、並べるのが不自然に見えた。 平たく言うと、それらは同じ全体の2つの分け方だけであって、「整数」を「正数・負数」と同列にしたような印象だった。 「フレーミング」が着目した「画面外との関係性」という文面を見ても、シールをも包摂しているはずであって、逆に「フレーミング」を当たり前に平面として扱うのも懸念点である。

バザンが提唱した「フレーム」と「マスク」との概念を抽象的概念でなく、形象として想像してもらいたい。 「(絵画の)フレーム」はまさに壁の上に貼り付けられた「シール」であり、「マスク」もまた画面上に敷いられた穴の空いた黒い幕である。 つまり、この2つの概念の成り立ちにはすでに「レイヤリング」の働きが存在しているのだ。 ドゥルーズが批判したように、絵画であっても映画であっても画面外との関係は基本的に存在する。 としたらバザンのいう「フレーム」と「マスク」の違いはどこに依拠するだろうか? バザンによる原文はかなり短くて正確に突き詰めるようがないと思うが、自分なりの解釈をしてみれば、 画面内の内容物=図像が画面外への延長を想像するのは知覚の性質であり、物理的なフレームのタイプによって遮断されることはない。 しかし図像が乗せられた媒体にとっては違う。 絵画のフレームは媒体としてのキャンバスと絵の具(或いは「絵」という形式)を切断するが、映画の場合、実際の媒体が銀幕だが図像のリアリティの上に、撮影された物理空間が媒体として認識されてしまい、映画のフレームに断ち切られないこととなる。 リアリティ辺りは別の話題になりますのでここまでにするが、画面外の関係には図像と媒体との2つの主体が考えられて、そして混同されやすいという点を抑えておきたい。 直感的な例でいうと、壁に飾った絵画のフレーム外には絵が描かれていないーー絵という形式がそこにないと思うのに対し、穴を開いたマスクを絵画の上に掛けると、フレーム(=穴の縁)の外にも絵は描かれていてマスクに隠されただけと思ってしまうだろう。 これこそが、キャンバスという媒体の画面外との関係から生じた現象である。

実在するフレームとマスクと違い、漫画の枠線はむしろ前述通りに実在するシールやマスクなどを表象して記号として機能する。(シールがフレームよりイメージしやすいため以降「シール」を使う。) そして前節で説明した枠線自体だけでなく、レイヤリングの形態(シールかマスクか)もまた多義的である。 図 2.7a で示したように、単純な枠線自体の記号性は強い反面、レイヤリングの側面から見ると、人によってはシールにもマスクにも又は平面にも捉えることができる。「影」を足してみると枠線はシュレディンガーの猫のようにどちらかに収縮する。 また、枠線を改変せずに、内容として描かれたものにゲシュタルトの法則とT-Junctionなどの図形的要素を用いれば、枠線のレイヤリング形態も変わる(図 2.7b)。 つまりレイヤリングは普遍的に起きうる・起きている、その結果は一定でない曖昧な状態で平均値として平面に見えるかもしれないし、明確に「シール」に見えるかもしれない。または局所による全体の不統一な状態かもしれない。

図 2.7

内容的

描かれた内容物を認識された上で、比較的に事後に空間の非連続性を発生させることもできる。 ここまで見てきた形式要素を顧みると、キーアイデアは明らかで簡単であるーーどんな図像が一枚の絵に見えるか、もしくは見えないか。 この問題を内容面で考えるのはむしろより直観的であろう。

最初に Understanding Comics から引用した図 2.8を見てみよう(※原文は完全に別の話)。 右二枠内の空間の連続性と左二枠のそれを見比べると、明らかに右二枠の方が高いと言えるだろう。 左二枠内の人物図像は図 2.7(b) みたいな形式的な関連性がないものの、対面に座って会話しているように見えて、一つの連続的な物理空間として認識しやすいである。 空間の非連続性も抑えられ、左二枠を一枚の絵として見ることも可能になっている。 そしてこれによって、レイヤリングも「マスク」の形に収縮している。

図 2.8 Scott McCloud, Understanding Comics, p.101

右二枠は、人物図像の同一性によって、一つの空間では決してありえない。 この特性を利用すれば、同じ物理空間内で同じ人物を複数配置できるのだ。 図 2.9 のような表現は漫画において少なくないであろう。 図 2.8 の左二枠が枠線で分断されたが一定の連続性をなしているのと逆に、図 2.9 は枠線なしの連続な物理空間の中で非連続性を生み出している。 改めて注意したいのは、この例で複数の明日ちゃんの図像が占めた異なる「空間」は「物理空間」ではなく「心理的な空間」である。 非連続的な物理空間は「空間」の非連続性を呼び起こすが、連続的な物理空間は必ず「空間」の連続性につながるのではない。 (この例の「空間」は物理的「時空」に関連していると察している方が多いかと思うが、時間との関連性は後の章で説明する。)

図 2.9 博「明日ちゃんのセーラ服3」、「明日ちゃんのセーラ服1」

それでも直感しにくいのであれば、一つ思考実験をしてみよう。 図 2.9 で、既存の枠線を削除してから、漫画経験者に適切な枠線をつけてもらったらどうなるでしょうか? あくまでも推測だが、全ての人物図像が異なる人物の場合は画面全体を囲む、元の場合は更に小さい枠を描き足す傾向にあるかもしれない。 漫画読む経験のある人にとっては、枠線は分節の記号であり、枠線を描き足す行為が読む際の分節しかたの露わではないだろうか。 図 2.8 にも同じ実験をしてみれば、恐らく多くの人は右の人物図像に一つの枠を、そして左の二人の人物図像に一つの枠を描き足すであろう。

もう一つ重要な内容的分節手法として、内容自身が表した空間の違いというのが挙げられる。 図 2.10 のように、顔のクローズアップの隣若しくは上に身像を置くと、枠線がなくても顔と身像と各々表した空間が一致しないゆえ、空間の非連続性が明確に見て取れる。 必ずしもスケールやアングルなど物理空間を直接に表すものでなくとも、光の方向、風の向き、文脈で事前にわかった人物たちの位置と向きなどいろんな要素で空間の違いを表現できるのだ。 また、図 2.1 でも視線と表情との内容的な要素が含まれ、枠線なしでも「リバースショット」という認識に誘導する作用を持っているのである。 そして二人の図像間の距離を増やしたり、上下ずらしたりすると、その不自然さに二つの物理空間を感じれてしまう可能性もある。

図 2.10 樫 みちよ『彼女たち』表紙絵

オブジェクト、まとめ

ここまでは枠線を基に空間の非連続性を論じてきたが、そのため記号的要素と物理空間の非連続性とに偏ってしまっているので、 ここでは「オブジェクト」の存在自体が引き起こす空間の非連続性に焦点を当てたい。

まず図 2.1 に戻って、(厳密に言えば内容的である)物質性やら記号性やらを導入する前に、人物図像が人物であることも忘れて単純な図形として見てみると、 この図に二つの図像があることがどう言えたのだろうか? ゲシュタルトの法則を引けば容易い疑問なのだが、重要なのはこの当たり前すぎる見方に疑問を持つことである。 例え図 2.1 に背景が描かれ、一枚の写真の様に空間も時間も連続的であっても、枠線を描き足す実験をすれば、 人物図像が半分ずつ枠取られるのではなく、丸ごとに枠取られることが多いであろう。 心理学的なオブジェクトは必ず物理的なオブジェクトに対応するのでなく、ゲシュタルトの法則に組織化された知覚の単位 (perceptual unit or group) である。 その表象が物質性と記号性を持ってオブジェクトと記号へと分化していく。

さて、空間の非連続性を形成する要素を図 2.11 に整理してみた。

図 2.11

「S」字の曲線は二つの要素は完全に独立した概念ではなく、連続的な表現空間を開いているという意味を表している。

物理的時空間の非連続性の形成の3つのルートを改めてまとめておきたい。

  • (a) オブジェクト間の時空間の不一致(図 2.9, 図 2.10)
  • (b) 物理的時空間が明確に描かれていない場合、記号が空間の非連続性を引き起こし、それ故異なる時空間を認識してしまう(図 2.2)
  • (c) 物理的時空間が明確に描かれていない場合、図形的特徴が連続的な物理的時空間の認識を妨げる(1節目で言及した、図 2.1 の二人間の距離を増やすケース)

物理的時空間が明確に描かれていない場合に、人は自然に手がかり(オブジェクトが表した空間やオブジェクト間の関係)を見つけてそれを構築しようとするが、 手がかり自体に矛盾がある場合や間を開けて手がかりの信憑性を薄くした場合には、連続的な物理時空間が立ち上がらず、非連続性が浮上するのである。

注意単位と空間構造

前に提案した思考実験は読者がどこを枠取り、空間を分節したかを露呈させようとした。 この行為はカメラのファインダーを通して紙面の一部を切り撮り、フレーミングされた画面が一枚絵として見られることとなる。 それが空間の非連続性に分節され、空間の非連続性に相対した連続性を持つ紙面空間であり、読者が注意をおいた心理学的オブジェクトである。

Object-based attention という概念を確立させた John Duncan は当時の論文で以下のように述べた。

... focal attention acts on packages of information defined pre-attentively and that these packages seem to correspond, at least to a first approximation, to our intuitions concerning discrete objects. (15)

本稿で言う「分節された心理学的オブジェクト」(以下「オブジェクト」)はまさに「pre-attentive packages」という言葉に当てはめると考えられるのだ。(偶然だが「discrete」という言葉もまた「非連続性」と合致している。) 繰り返すが、オブジェクトは実在する物体でなく、「a coherent unit」即ち「情報の一塊」を表す概念で、自然に人の注意を誘導する作用を持っている。(16) *4 言い換えれば、紙面上には空間の非連続性によって形成された、潜在的に注意を吸引するオブジェクトが大量に(無数に)存在しているのだ。 それらを本稿は「注意単位」と名付けておく。

つまり読者が漫画を見る際は、視線を断続的に動かす (fixation - saccade) と同時に注意 (covert attention) を置くのだが、 その fixation・注意を誘導する踏石となるのが「注意単位」であると考えられる。 空間の非連続性の曖昧性の故、注意単位は強度それぞれで無数に存在する。 そして重層的構造である注意単位がもう一つの注意単位に含まれるように見えても、二つを割り切って注意することも可能である。 その理由として、選択的注意(selective attention)は動的に範囲を調整することができ、単純に視野の一部範囲を切り取るだけではなく、オブジェクトに絞ってそれに関連するだけの情報に注目することができる。 例えば Daniel Simons が実行した inattentional blindness に関する有名な実験 (17) では、注目されているボールが通りすがりのゴリラと画面上で重なったとしても、ゴリラは無視されやすいのである。

マンガ表現論の文脈で「注意単位」と似たように、静的な紙面よりも読者の動的な見方に着目したのが、伊藤剛が『テヅカ・イズ・デッド』で提案した「フレームの不確定性」だった。(17) むしろ本稿はそれに啓発され発展したものである。 ここは岩下朋世の洗練されたまとめを引用する。「フレーム」とは「マンガにおいて『画面』と認識されるもの」、その不確定性とは「『コマ』と『紙面』のどちらに属するものか、一義的に決定できない」(18) ということである。 例えば人物が枠線を乗り越えている表現に対して、フレームはどちらかの枠に属するか紙面に属するかが不確定的な状態だと言える。

しかし「コマ」か「紙面」かの二元論には難点がある。三輪健太郎が手塚の『エンゼルの丘』の1枠しか描かれていない見開きページを取り上げて伊藤を批判した。この例で伊藤の二元論を適用すると、枠がページそのものになっているため、不確定性はない。しかし欄外に書かれている「ぜんぶでなんびきいるか、かぞえることができますか?」という文章は読者の視線を亀の群れの絵の中に泳がせる (19) ーー視線若しくは認識される画面は不確定であった。

図 2.8 を見返してみれば、左二枠も一つ大きな「フレーム」になれるはず。 というようなケースに気づき、野田謙介が「上位のコマ集合」を提案し、またコマよりも小さい単位の存在を「下位のコマ集合」と、階層的な構造を提案した。(20) 続いて伊藤は三輪の批判と野田のモデルを踏まえて「多段階フレーム」を提案した。 「目」「瞳」「コマ」「紙面」を主な軸として多段階フレームモデルを構築したが、フレームは静的でないと補足し余地も残した。(21) マンガにおけるアイトラッキング実験から見ると、目や顔が注意に対する吸引力はたしかに大きいである。(22) 伊藤は人の注意の特徴に鋭く気づくだが、確定的で「コマ」を中心とするモデルからは離れなかった。 以下の論述を読めば、「枠線」の特権化は明白に見えるのであろう。

ひとつは言うまでもなく「線で枠どられた領域」であり、もうひとつは「線で枠どられていないが、ある境界があると認識され、その境界の『内』と『外』が分かたれると認識されるもの」(23)

野田の集合構造と伊藤の多段階モデルの共通点としては、「コマ」を中心とし、包括・被包括の木構造を構築していた。 枠線・枠は丸ごとフレームに包括されるか、もっと小さい何かを丸ごと包括するか、といった明確の従属関係を持つ構造であった。 しかしフレームとフレーム、フレームと枠線、枠線と枠線は交錯したり重なったりする。 例えば図 3.1 のように、二人の人物の一部を囲んでそのやり取りを強調する表現があるが、 ここで主に考えられるフレームが3つあり、重なっているのだ。 もしもっと小さい単位として右の人の右耳を考えると、枠線と右の人物(が持つフレーム)に同時に属することになる。 また、図 3.1 の逆バージョンとして、図 2.7b 左の状況を見てみれば、連続するような線分が二つの枠を跨るフレームを形成しているとも言えるであろう。 枠線を特権化せず、本稿が論じてきた連続的な「空間の非連続性」を基に「フレーム」を考えれば、フレーム間の錯綜で木構造が成り立たないことが明白にわかるのだ。

図 3.1

「画面として認識される」・されない傾向を具体的にかつ枠線を特権化せずに描写するのが空間の非連続性である。 尺度としての空間の非連続性は連続的であり、その傾向の度合いを表している。 内部の相対的連続性と外部との相対的非連続性から「認識され得る候補となる画面」としての注意単位が無数に生み出され、紙面に散在する。 紙面空間における注意単位達のあり方を「空間構造」といい、単純な木構造でありえないことは先程論じてきた。 空間構造の最も近い表現としては人工知能分野で Object Detection と Instance Segmentation モデルの出力形式かもしれない。 図 3.2 では認識された物体の範囲とその信頼度が描画されている。(信頼度が閾値以上の結果のみが出力されて実際はもっとある。) 信頼度というのは人間が自分自身の「客観的」基準から見たAIの正しさであって、もしAIの主観から考えると、 「オブジェクトとして認識される」範囲とその傾向が表されているとも言える。 注意単位とは地続きがあり、その表現の形も空間構造に通用できると考えられるのだ。 この空間構造の上に内容的に従属関係が見い出せるが、木構造でのような絶対的な存在ではなくなった。

図 3.2 Object Detection and Instance Segmentation (24)

しかし、完全に散在する構造だけでは不十分である。 読者は1つの人物図像の顔に注目してから手に目を移したりすが、これらの部分ごとに時空間を分節することはない。 注意単位間の関連性をもモデルに含めなければならないのだ。

ここまで空間を主軸に論じてきた注意単位と空間構造とのモデルは静的であることを注意したい。 読者が次に注意しようとするのは必ず強い注意単位には限らない、現在注意しているものに(空間構造の側面でも内容的な側面でも)関連している。 特に内容的な空間の非連続性の形式は一部事後性を持ち、静的モデルで表現されることが難しいである。 そのため、空間構造をベースに時間を取り入れダイナミックのモデルを構築する必要がある。

参考文献

(1) 四方田犬彦 『漫画原論』 p.35。

(2) 夏目房之介 『マンガはなぜ面白いのか』 p.91。

(3) 井上康 「何がマンガ言語世界に於ける〈言葉〉であるか―― 線の運動〈場〉の弁証法 ――」『京都精華大学紀要』 第三十三号 p.252。

(4) Thierry Groensteen. The System of COMICS. Chapter 1.1.

(5) 夏目房之介 「コマの基本原理を読み解く」『別冊宝島EX マンガの読み方』 p.169。

(6) 夏目房之介 「『表現論』から二十年」『マンガ視覚文化論』 p.56。

(7) 夏目房之介 「「間白」という主張する無」『別冊宝島EX マンガの読み方』 p.187。

(8) Thierry Groensteen. The System of COMICS. Chapter 1.10.

(9) Rubin N. The Role of Junctions in Surface Completion and Contour Matching. Perception. 2001;30(3):339-366. doi:10.1068/p3173.

(10) Spröte, P., Schmidt, F. & Fleming, R. Visual perception of shape altered by inferred causal history. Sci Rep 6, 36245 (2016). https://doi.org/10.1038/srep36245.

(11) 梁宁建 《当代认知心理学》。

(12) 中田健太郎 「切りとるフレームとあふれたフレーム」『マンガ視覚文化論』 pp.338-339。

(13) Sayim B and Cavanagh P (2011) What line drawings reveal about the visual brain. Front. Hum. Neurosci. 5:118. doi: 10.3389/fnhum.2011.00118.

(14) 中田健太郎 「切りとるフレームとあふれたフレーム」『マンガ視覚文化論』 p.345。

(15) Duncan, John. "Selective attention and the organization of visual information." Journal of experimental psychology: General 113.4 (1984): 501.

(16) Kimchi, R., Yeshurun, Y. & Cohen-Savransky, A. Automatic, stimulus-driven attentional capture by objecthood. Psychonomic Bulletin & Review 14, 166–172 (2007). https://doi.org/10.3758/BF03194045

(17) 伊藤剛テヅカ・イズ・デッド』。

(18) 岩下朋世 『少女マンガの表現機構』 p.41。

(19) 三輪健太朗 『マンガと映画』 p.278。

(20) 野田謙介「マンガにおけるフレームの複数性と同時性についえーーコマと時間をめぐる試論(一)」『マンガを「見る」という体験』 p.100。

(21) 伊藤剛「多段階フレーム試論」『マンガ視覚文化論』 p.309。

(22) Mikkonen, Kai, and Ollie Philippe Lautenbacher. "Global Attention in Reading Comics: Eye movement indications of interplay between narrative content and layout." ImageTexT 10.2 (2019).

(23) 前出 伊藤剛「多段階フレーム試論」『マンガ視覚文化論』 P313

(24) Shaunak Halbe. Object Detection and Instance Segmentation: A detailed overview (Link)

*1:祭壇画という特殊な形式でなく一般的な絵画にも「コマ」が見られる。例えば12世紀コッポ・ディ・マルコヴァルドの「玉座の聖母子」。

*2:距離を考えた場合、ゲシュタルトの近接法則の作用が考えられる。

*3:時間が異なるため図像が完全に連続しているわけではないが、完全に連続した画像だとしてもこの表現は成立する。下側の室内っぽい部分は一旦無視する。

*4:本稿でのオブジェクトは認知心理学で実験されていたオブジェクトより複雑で、物理空間の非連続性によっては空白も一オブジェクトに成りうる。ただそれでも「a coherent unit」という定義からは離れていない。