Ave Mujica評
MyGOの「なんで春日影やったの!?」はネタにされるが、実は一番MyGOの良さを表している。 「やった」即ち「演奏」は脚本レベルでキャラ達を揺さぶり、ストーリーを推進する。 キャラたちがバンドやりたいという物語レベルでも、バンドアニメという企画レベルでもなく。 観客はその激動するライブの味をしめ、ライブを期待するのである。 ライブが脚本において重要な意味を持つ要素となり、 観客のライブへの期待はキャラたちのライブしたい気持ちと重なる。 (この意味では、少女歌劇の「予測不可能な舞台」と似ている。)
MyGOの最終話で、この素晴らしき構造をMujicaで継承するために2つの準備を行った。 一つに、マスクという道具を用意した。 マスクは本当の自分を隠す(隠さないといけない)と表象する。 とすれば、マスクを外す行動は自分と向き合う(向き合わされる)と意味する。 言い換えれば、そういうプロットを表現するために準備した道具である。 二つに、演劇という形式を用意した。 MyGOは"朗読"という極めて高難易度の形式で、先述ライブの脚本レベルの意義を実現した。 それを踏襲するように、演劇というより表現しやすい形式を準備した。
しかし、Mujicaはこれらをどうしたか? 冒頭の2話で、意味もなく全員のマスクを軽率に外し、 直後に演劇を利用せずに脳内劇場という凡庸すぎる表現に逃げた。(しかも延々と繰り返される。) MyGOの良さも、これらの準備も皆破棄された。
ライブは(脚本的に)必要不可欠な要素ではなくなり、 ストーリーが進んだ結果の復唱と観客へのサービスとに矮化された。 これはまさに序盤のにゃむちの、観客に媚びればバンドじゃなくてもいい立場であり、 後半であやふやに"解決"とされるにゃむちは「Mujicaしかない」(からMujicaに戻る)も、 裏返せばバンドじゃなくていい立場は根本的に変えられず、 ライブ(=バンドやること)の希薄な必要性と呼応していて、 更に本作のバンドアニメだから観客がキャラクタのライブ姿見たいから最後はライブさせるというような、 制作(主導)者の潜在的な「観客に媚びればバンドじゃなくてもいい」スタンスを表している。
つまり、Mujicaはバンドアニメではなく、 中途半端にそれに似せようとして支離滅裂となった 美少女アニメである。
(つまり、監督はにゃむちである。)