青い三角形部屋

「この異端者よ!」

星の時計の内田善美

※ 2023.4.16 に書いた中国語バージョンを翻訳したものです。

内田善美先生を知ったきっかけは、20世紀の百合漫画を考古する時に読んだ『ひぐらしの森』だった。 主観的に70、80年代の百合漫画は複雑で強烈な物語や批判的思想に長けていて、 同時期に発達してきた少女漫画的表現は勿論用いているものの、とりわけ印象的な表現は少ない印象。 そんな中で、1979年の『ひぐらしの森』は、緻密な情緒を全編に漂わせる独特な表現を前面に出し、 その少女漫画的でない規則的なコマ割りで少女漫画的表現を超越し、自分にかなりの衝撃を与えてくれた。

内田の主人公達の多くは内向きで思い耽ることが多い。 心理描写はストーリーとキャラに対する補足というより、むしろ話の主軸となって、シーンを繋げる形になっている。 例えば Fig.1 の pp.31 で、主人公の萩は沙羅の言葉に心が乱れ、(背景のトーンに表象されている、)極自然に苦悩のモノログに繋がって行ったーー 萩の首のたった一本の線が間白を跨る架け橋となって、視線をスムーズに心理的空間を表象する黒いコマに滑らせ、2つの時空を難なく繋げる。 モノログはpp.32の最後まで続くが、最後のコマの絵は既に翌日の場面だ。 モノログの文面自体は連続的なため、読者の連続的な主観的時間はモノログの「発話」する時間に同期されるが、 物語世界の物理的時間はそれらに対応されずに、断片的に貼り付けらたような構造になっていて、むしろ回想表現によくある形だ。 内田は敢えてそれを通常の叙述に用いて、作品全体に「思い出」と化すフィルターをかけ、喜びを麗しさに、悲しみを感傷に変身させる。

Fig.1 内田善美ひぐらしの森』pp.30-33

内田作品のこういう性格は、正しくその規則的な四角いコマ達に根付いている。 少女漫画は枠線の束縛を突き破り、重層化されたレイヤーからなる非線形的時間性と錯綜な心理状態の表現が特徴としてよく知られている。 たが内田は、規則的なコマで主体である心理描写を実現できた。

内田作品の中では、縦長のコマが多用され、その中は縦横比5くらいの極端的な例も珍しくない。 決して縦長コマが他のマンガで少なくはないが、「コマ」と言われると最初に頭に浮かんでくるのはいつも横長のコマだった。 (自分の映像作品や四コマ漫画などからの視覚的印象が強かったかもしれません。ウェブトゥーンやショート動画で育った新世代は全く逆可能性もあります) ただ横長コマは先天的に、写実的な背景なしの構図を設計するのに難点がある:どアップじゃなければ、必ず横に大きい空白ができてしまう(勿論文字を詰めるのもありだが)。 その空白が一種の表現として成り立たないというわけではないが、表現のバリエーションが限定されてしまう。 相対的にキャラ図像の割合が小さくなるため、横方向上の「位置」という特徴だけが目立ち、他の表現(絵自体の表現や上下配置による表現など)を抑圧してしまう。 考えれば極簡単なことではあるが、人間の体は縦長であるため、縦長のコマがよく似合うーー 均衡的に上下配置と左右配置を扱えるし、絵自体の割合が多くなるし、文字を詰める必要もない。

Fig.2は一番直感的でわかりやすい例だ。 萩の図像がコマにおける大きさ(ショートタイプ)と配置が情緒に応じて変化するのは一々説明するまでもない。 特に、片方の目や体を枠外に隠すような配置は、縦長コマにおいてとても自然である。 横長コマだったらどうしてもそのアンバランスが気になってしまい、その場合は文字を詰めてバランスを取るケースが多くなる。 しかし文字の持つ視線への特権的な吸引力は、構図自体の表現力をまた抑圧してしまう。

Fig.2 内田善美ひぐらしの森』pp.18-19

比較に露骨でない例Fig.3を見てみよう。まずは右ページの3コマ目。 非常識で何でも聞きたがりであったが突然自分で考えることを始めた「猫」という名の女の子を見て、 元々ツッコミ役の「草」という名の男性は枠の外側にほとんどの顔を留め、猫を見守る姿勢がよく分かる。 続いて下段の3コマで、猫の身長はコマの高さに合わせられたが、足だけが枠外に残っている。 そして猫は草に「19(歳)」への憧憬を伝えると、左ページの2コマ目では頭だけが上の枠線についていて足が宙吊りな状態になる。 まるで大人になりたくて、大人の椅子に座ったら足が地につかないような、絶妙な表現ではなかろうか。

Fig.3 内田善美草迷宮・草空間』pp.174-175

前景化された情緒の流れの中で、構図によって表情が付与されたコマは絵を超えて心理的な記号となる。 (Lineなどで使われるスタンプが近いかもしれない。) 特にキャラの仕草と表情が細かく描かれ、コマを大きく占め、余白が喚起する物理的な空間の感覚と、文字という特権的な記号による相対化を抑圧する場合は顕著である。(内田の描いたキャラの控えめの表情にとっては構図の重要性はなおさらである。)拙作『芸術点最高の百合漫画 内田善美「ひぐらしの森」 - 青い三角形部屋』でも取り上げた例Fig.4ほど絶妙な例はないであろう。

Fig.4 内田善美ひぐらしの森』pp.10

中学の卒業日と高校の入学日にまだ名前も知らぬ沙羅を見かけて密かに惹かれた志生野が 初めて教室に入り、沙羅が一緒のクラスにいることを知った時の描写である。力入れて細密に描いた沙羅の美しさを、二重線が額縁のように働き一層強調し、志生野の目に刻み込んだのである。 「絵のような美しい人」という比喩表現をこうも簡単に成し遂げる方法は他にあろうか。 さらに絶妙なのは、3つのモノローグ「どうしよう」の間に配置されたこの2つの絵は、 まさに志生野の中から見た沙羅の印象であり、「美しい」という印象を表す「単語」と化したように感じた。 マクラウドは Understanding comics で、絵と文字の間にある記号性の軸を論じた。 それはあくまでも見た目上の写実性と抽象性を基準にしているように見えるが、 ここはむしろ心理的に、同一化で美しいという印象を読者にも感じさせ、純粋の絵に二重線で印象を単語に包装し、文字のモノローグに織り込むのだーー 「……どうしよう…」「あの人が…」「どうしよう」「あの美しい人が…!」「どうしよう」と、言わんばかりに!

このような記号化されたコマは叙事の部分にもところどころ挿入される。 シーンが心理活動の主軸に付着しているとすれば、これらのコマはアンカーであり、 物理的空間と心理的空間はそこに交差する。 Fig.5で、突然姿を消した友人を一心に探そうとする主人公蒼生が描かれる。 白と黒の背景の意味は言うまでもないが、その切替に注目してもらいたい。 左ページの中段の1コマ目の母が白い背景にいるのに対し、2コマ目では蒼生が黒い闇に溶けつつある。 そして3コマ目はまさに母が発する「文字」を完全に拒絶する表情としてコマであり、情緒の記号である。 下段の1コマ目もそうであるが、母は闇を感じつつも依然として白い背景に位置する。 そして2コマ目で蒼生は現実に戻り出かけることを伝えると、最後のコマで、蒼生は前とほぼ同じ姿勢で黒い背景の中に入る。 この2コマで、蒼生が物理的に移動したかどうかは知るすべがないーーもしかしたらほぼ移動しておらず黒い背景が母を遮蔽しただけかもしれない。重要なのは、3コマ目がアンカーとして、歩き出す姿勢を手がかりに2コマ目の物理的空間と繋がる同時に、黒い背景で心理的空間に切り替え、右ページの心理描写に繋がることである。完全に心理的空間に入った右ページの上段だからこそ、モノローグと記号化したコマとの同時出現は自然である。中段がどのように現実戻るのもまた面白い。

内田の最高傑作で唯一の長編作である『星の時計のLiddell』は人間関係や感情だけでなく、より抽象的で壮大なテーマを扱っているため、具体的で詳しい会話が多くなったが、記号化したコマは依然としてところどころに織り込まれ、情緒を凝縮しリズムを生み出す。 その一例が Fig.6の左ページの最後のコマである。中段の左コマと比較すれば分かるように、肩がコマに入る同時にコマ自体も細くなり、目が半分枠を出るように女性が圧迫された。その右にあるのは多少位置が高くて、スペースにもっと余裕のある男性の顔だ。

Fig.6 内田善美星の時計のLiddell』1巻 pp.150-151

そして本作で多用された特徴的な表現として、同じアングルと主体の三連続コマがこの2ページで3回も使われた。 現代にデジタルで制作したマンガには、よく映像のFIXショットを模した連続的なコマはよく見られる。 余談だが個人的には、そのほとんどが漫画独自の性質を理解せずに映像中心主義による拙劣な模倣だと、 かなり嫌いな表現ではある。その詳細の理由はまた別の文にしよう。 ただし内田の三連続コマは普通に呼んだ時にそんな映像的なイメージは一切浮かばなかった。 原因もまた明白である。3つのコマは基本的に構図も表情もコマの幅自体もそれぞれ違い、とても映像みたいな同じフレームの中で連続的に切り替わるものとして認識できないのであろう。

では、この三連続コマが映像を模したことで連続的な物理的時間を作り出すのじゃなければ、何の表現だろうか? 一旦Fig.5の左ページの最後の2コマを振り返ってもらいたい。蒼生が物理的に移動したかどうかはわからないが、重要なのは「紙面」上、蒼生は母を後にし黒闇に「移動」したということだ。 そうだ、三連続コマは3つ合わせて1つの運動を生成しているのだ。 その運動のありかは物理的空間ならぬ紙面上に生まれた心理的空間である。

伊藤剛は「フレームの不確定性」と「上位コマ」を提案しました(その階層的構造自体は少々堅苦しいものではあるが)。その発見は漫画表現論での相対性理論といっても過言はないほど、漫画表現論の新天地を拓き、野田謙介などたくさんの研究者に発展されてきた。拙者も『マンガ表現の連続的空間(前篇) - 青い三角形部屋』において、より一般化した「フレーム」(=絵として認識する範囲)を考察し「注意単位」という概念を提案しました。ただし、それらの研究に取り上げられた例は、枠線を突き破るキャラやスタイル画など多少メタ的でパターン化したものが多く、個人的にしっくりこないものばかりである。しかし内田の表現は非常に自然的でありながらも奥深くて広がりのある可能性をを見せてくれたのだ。

各コマは各自の映射関係(数学的にもっと明確に言えば「変換行列」)で同じストーリー世界の物理的空間を紙面空間に映射する。 ページのレイアウトと読み順のルールによって、紙面上に無数の潜在的な注意単位を生成し、 読者の視線と注意範囲は動的に運動し、それらと必ずしも一定しない序列で遭遇する。 紙面は読者が「読む」という心理的行為の場であるならば、フレームの不確定性によって顕在化される紙面空間は心理表現に適応する心理的空間になるのは自然ではなかろうかーー内田の表現はそれを見事に実現した。

Fig.7で、仮死状態から目覚めてもまた夢の中に戻りたがっている黒髪の男性「休」と彼を見守る主人公「ウラジーミル」が描かれている。 上段では、ウラジーミルの目と休の目が物理的にも紙面上にも合っているが、下段の2コマになると、休は目を閉じて「顔を逸した」。 しかし上下コマの休の姿勢をちゃんと見比べれば分かるように、休の顔の向きは基本的に変わっていないーーウラジーミルと向き合っているはずだ。 しかしグラデーションの背景によって下段の2コマは1つのフレームと成し、それで作られた心理的空間の中では、 ウラジーミルは休を関心の目線を注ぐが、休はそれを拒絶するように身を沈め、「顔を逸した」。 完全に異なるアングル(映射)の物理空間が、背景のゲシュタルトによって、こっそりと1つ連続的な心理的空間をできたのだ。

Fig.7 内田善美星の時計のLiddell』1巻 pp.31

紙面という心理的空間の上で、視線の行き先が心の行き先である。 物理的空間の合理性を捨てた Fig.8はその証拠の一つである(『芸術点最高の百合漫画 内田善美「ひぐらしの森」 - 青い三角形部屋』にも似たような例がある)。 左側がシーンの始まりに見せた写実的な全景で、その後右のコマ達が描かれた。 物理的に見れば、ウラジーミルと休の体の向きは近く、ウラジーミルが真正面を見ると視線はモブの女性もしくは無人の方に当たるはずだ。もし映像的な考え方で分析しても、アングルの取り方が難解だ。 ただし、実際左のシーンを読んでから5ページ後の右3コマを読んだ時に、以上の物理的空間の不自然に気づく読者はいないだろう。 つまり、前述記号化されたコマ3つでなされたこの段は正しく心理描写の段落であり、それにおいて物理的空間はさほど重要ではなく、むしろ紙面空間・心理的空間が重視されるべきだ。 女性葉月とウラジーミルは心配で休を見つめるが、休は夢と死の世界に一心で二人に背を向けた。

Fig.8 内田善美星の時計のLiddell』1巻 pp.46, 51

さて、Fig.7とFig.8で心理的空間での静的な構図による表現を論じたが、まだ「運動」については話していない。 紙面上に婉曲の時間軸が流れた、読む行為が動的であることを忘れてはいけない。(この意味では紙面空間というよりも紙面時空と言ったほうが正しいである。) 読む行為が心理的運動であるように、コマが心理的空間で構築した連続性も無論心理的な運動である。 Fig.9はストーリー的にも表現的にも読者を戦慄させる1ページである。 下段で、連続した拡大するウラジーミルの2コマが加速器のように、読者の注意をウラジーミルの視線と合わせ、強力に左端のコマへ、恐ること皆無でむしろ意気揚々で死に征く休の顔へと誘導する。

Fig.9 内田善美星の時計のLiddell』2巻 pp.106

竹内オサムは映像理論から「同一化」という言葉を借りたが、ここでは漫画特有の「同一化」が現れた。 読者の視線運動(心理的運動)が、紙面という心理的空間でキャラクターの(心理的意向を示す)視線と重なる時に、より確実な「同一化」が実現するのだ。 Fig.9での運動の行き先に、休の決意の視線と鉢合わせ、映像のように1つ1つ切り替わる様子を想像するよりも、最も直接な衝撃るが与えられる。 なぜかというと、この同一化は、紙面平面と別次元に位置するカメラを仲介するなく、読者とキャラクターの心理的運動の同調から直に由来するからなのだ。

そしてフレームの不確定性により、時空の断面じゃなく、持続=運動の全体を同時に見せることが漫画にはできる。 上記三連続コマがそうだし、その変化形のFig.10はその独特な性質を用いる表現の可能性を見せる天才的な一例である。

Fig.10 内田善美星の時計のLiddell』2巻 pp.140(実は左上のコマと右下のコマがちょうど連続した物理的空間で、二人が見つめ合うようになっている。とんでもない形の「フレーム」だ。)

ウラジーミルの引き止めに、無言の休が左下へ縮小しながら沈んでいく様子が返事となったーー この運動は紙面時空上に軌跡を描き、しかしウラジーミルの下に向く視線と縦に立てた腕はそれに交差するしかできないのだ!

高橋明彦は『コマとアリストテレスの運動イメージ』でコマの異時同図について以下のように述べたが、 フレームの不確定性によって、フレームにも言えるであろう。

瞬間や同時性とは、複数の個物がそれぞれ有する持続が交差することによって顕在化した時間であり、(略)あたかも点であるかのようにみなされる(略)。

休が夢の中で時空を超えて19世紀の天使のような女の子Liddellと出会ったように、 私の意識も視線という形で紙面の時空を巡り巡って、天才の内田善美と出会い、帰ることを忘れたのだ。

余談

自分もこれらの表現を応用して「」という漫画の第2話を描いたので、よかったら読んでみてください。 https://nikukikai.art/#/null2

吉屋信子記念館(2019年11月)

吉屋信子ファンの友人に見たいと言われたので、再公開しました。

 

 

リビング。画像左端の奥が玄関からの入り口です。

 

リビングの後ろの和室からの眺望。視点側も引戸になっていて、非常に開放感があります。画像右側が壁です。

 

上とほぼ同じ位置で振り返ると、書斎になります。(書斎と和室の間にちっちゃい通路が挟まれて、そこに立っています。)天井にも窓が開けられていて、集中しやすいようにようにデザインされたと、スタッフさんが紹介してくれました。中には入れないです。

 

通路の奥が寝室ですが、中に羽織が陳列されていて撮影不可です。

 

通路を折り返すと、ダイニングルームです。(上3つの部屋がL字になっているが、もう一角がダイニングルームです。)壁の向こうはキッチンみたいで、引戸から料理が出されるっぽいです。(記憶がちょっとあいまいです)

 

庭から見た感じ。左から寝室、和室、リビング、玄関です。木々に囲まれて、冒頭の玄関までの通路からは庭をあんまり見えないですので、リビングに入った途端に開かれた庭の景色は素晴らしいサプライズになりますね。

 

リビングの方に近寄るとこんな感じです。陳列棚で仕切られた奥側がダイニングルームです。

 

最後に展示物をいくつか。

 

以上です。

今見返すと写真撮るの下手すぎたので、今年の11月にもう一回行ってみようかなと考えています。

 

以下余談です。

最初に入った時は私一人しかいませんでした。ウロウロしてたら、スタッフのおばさんが出てきて軽く会釈して隅っこに椅子を置いて読書し始めました。

しばらくすると女子高校生一人と(多分)ヨーロッパ人の女性一人が入ってきました。

したらおばさんがとても嬉しそうに立ち上がって挨拶して、親切にガイドし始めました。

私はちょっと寂しく感じましたが、仕方ないと思って玄関までウロウロして、そろそろ帰ろうと思っていたら、ちょうどおばさんが二人を玄関まで案内してきました。

ちょっと気まずそうに、おばさんは私に声を掛けました。なんでここに訪れたかと。

私はちょうど手元にあるリュックから、『女人 吉屋信子』を取り出して、これを読んだからと返しました。

おばさんはちょっとびっくりして、楽しそうに私にも案内してくれると。

部屋の案内をしてもらい、著書の展示棚へ着いたときに、おばさんは代表作である『花物語』をわたしたちに紹介して、読んだことあるかと私に聞いた。

はい、あでも一番すきなのはやはり『屋根裏の二處女』です。

おばさんが目を丸くして、毎年卒論のために女性が何人か来ていますが、こういわれる男性は初めてと言いました。なんでそれを読んだのとまた聞きました。

私はちょっと恥ずかしい感じがして、目を泳がせて展示棚を見ている他の二人に聞こえない小声で「百合漫画から」と返しました。

したらおばさんの目が潤んでいるように見えて、「そうなんですか。吉屋信子先生が知ったらきっと嬉しいです。」と聞いて、私も涙ぐんでしまいました。

そのあと、おばさんがめっちゃくちゃ熱心に普段開かないキッチンのドアを開けて見せてくれたり、リビングの戸袋やそれの木材、庭にある花まで紹介してくれました。

結局閉館時間まで過ごしました。

芸術点最高の百合漫画 内田善美「ひぐらしの森」

映画「ペルソナ」冒頭7分間を形容する言葉「映像詩」を借りて、「ひぐらしの森」を「コマ詩」と言いたい。 コマ内は表現力に満ちて心象の記号と化し、コマ構成は格子柄のような無機質の極まりの構造からいかにも少女漫画らしい重層的構造まで、尋常でないメリハリを見せる。 心象の記号を織り込んだ構成の抑揚頓挫は詩的ではないだろうか。

それなのにバスケットボールのシーンのいくつかのコマ以外は全部四角いと考えると、 コマ使いの凄さに吃驚してならないのだが、同時に四角いコマという外見上の冷静さと表現上の波打ちとの対照は、まさに主人公そのものである。 世界が違いすぎるクラスの二人志生野と沙羅は、一夏別荘で一緒に過ごして心を互いに開いていくのを、委員で落ち着いていそうな主人公志生野が回想する話で、 ずっと最初から沙羅に惹かれ揺さぶられていたが「誘惑」を拒否し自分を抑え続けて平静を保つ主人公なのである。 志生野の回想だからこそ、その気質を形にした表現かも知れない。 意識の内語をを軸にシーンを段落感少なく切り替えるのも回想らしくて、現実の物事の変化でなく志生野の心境の変化に基づいて話が構成されたように感じた。

志生野に怒って頻繁に遅刻するようになった沙羅に、志生野が話しかけるシーンである。 極めて単調的な格子状のレイアウトで、会話の掛け合いをうまく表現できたのは、 誰もが気づいているかと思うが、沙羅がコマの中でずっと同じポジションで同じ姿勢でいるのに対し、志生野のコマは多様な構図で描かれていることだ。 それでも一人の人物、背景のトーン、吹き出し、このたった3つの要素による構図がこんなに豊かな表現をできるかを教えてくれる2ページである。

まず一番に、すこし堅苦しいもののまだ平静な心境を表している縞模様の背景に、まだ向き合うのを怯えているというように、片目を隠されて志生野の顔が描かれている。 続いて驚きと動揺を表現する背景の上に、隠れてた右目が少し姿を見せるーー誠実な心配の吐露をきっかけに対話が始まる。 そして安心する志生野の位置もコマの左下に落ち着き、放射線状のトーンも滑らかな模様に溶けていく。 この後横顔になったり顔をそらしたりする演技に当たる部分はさておき、ショットの種類をみると、 (志生野のコマの)6番目は熱くなって失言した自分が我に戻ったかのようなミディアムショットで、最後に読者とともに沙羅の複雑な事情に翻弄され、 完全な闇(真っ黒のトーン)に引き込まれている主観的なクローズアップが描かれている。 そして、4、6、7番目の吹き出しは志生野の驚きや動揺によって、人物の左側に設置されているのも1つのポイントである。

もっと自然で「普通」な1ページがここにある。ただよく個々の構図を吟味するとやはり各々明確な演出意図を込められていることがわかる。 その中特筆したいのは、2番目から3番目のコマで、キャラクタはそんなに動いていないはずなのに、視点を右下へ下げることで、沙羅のウキウキな気持ちを鮮明に表現した。 映像でだと絶対こんなに自然に視点を移動を利用できないであろう。 (むしろここは視点がこんな風に移動しない固定観念から、相対的にキャラクタが動いたと読者に錯覚させたのではないか)

その構図力が四角いコマから開放された時にはさらに異彩を放つ。 志生野が沙羅の別荘に訪れ、初対面の沙羅の従兄弟たちに歓迎される場面である。 一番上は四人と相対する説明的なコマだが、「溝」ならぬ一本の線を採用することで、 華やかな姿たちがその現実的なシーンから志生野の心の中に、スムーズに流れてくる。 そんな連続した構図だが、左下のコマは交わる四人の絵と対照にぽつんと置かれている、閉ざされた心のように。

そしてこのページ、特に上記みたいな巧妙な表現ではないが、 ただただ人体、布の描線で描き出した動勢と、 その動勢が視線の動きと合致して腕を広げる沙羅の、志生野も読者もを魅惑し吸い込もうとする表現は、圧倒的だ。

これ以上に感心したところを最後に紹介したい。 冒頭で、中学の卒業日と高校の入学日にまだ名前も知らぬ沙羅を見かけて密かに惹かれた志生野が 初めて教室に入り、沙羅が一緒のクラスにいることを知った時の描写である。

力入れて細密に描いた沙羅の美しさを、二重線が額縁のように働き一層強調し、志生野の目に刻み込んだのである。 「絵のような美しい人」という比喩表現をこうも簡単に成し遂げる方法は他にあろうか。 さらに絶妙なのは、3つのモノローグ「どうしよう」の間に配置されたこの2つの絵は、 まさに志生野の中から見た沙羅の印象であり、「美しい」という印象を表す「単語」と化したように感じた。 マクラウドは Understanding comics で、絵と文字の間にある記号性の軸を論じた。 それはあくまでも見た目上の写実性と抽象性を基準にしているように見えるが、 ここはむしろ心理的に、同一化で美しいという印象を読者にも感じさせ、純粋の絵に二重線で印象を単語に包装し、文字のモノローグに織り込むのだーー 「……どうしよう…」「あの人が…」「どうしよう」「あの美しい人が…!」「どうしよう」と、言わんばかりに!

そして話の終盤に、同じようにずっと前から自分に惚れた沙羅を拒み続けたのが自分と悟る志生野の回想にも、二重線のコマがあった。

1つ目も2つ目も志生野視点だが、2つ目の沙羅の視線になぞって3つ目に目を移すと、そこにあるのは志生野であった。

あ…沙羅の目にもまた志生野が絵のように刻み込まれたんだ。

作画凝視#1 属性の配合

とにかく手を動かそうと思って何かおもろい作画を見かけるたびに適当に書いていこうと思った。

まず下のgifを見て、皆はこのキャラクターの動きをどう感じ取るだろうか?

私は100ループ以上凝視したが、理屈では回転かと推測できるが、視覚的に感性的にはとても回転に見えなかった。 ただ単純に「すごく動いてる」のと少しカオスで無機質的な感じがしました。

ある部位が2コマで大幅に位置を変えて、運動の方向も変えると、その部位が時空間における同一性が捉えにくくなったり図像の運動*1が固く見えたりするというのが自分の主観的経験だ。 この例でも、激しい動きの中でフレーム間の「アンカー」的なところが描かれている。

しかし平面的にある程度の連続性が保たれたとしても、回転を表現する「視覚的ヒント」が不十分であろう。ざっくり羅列してみると、

  • 両足はほとんどのフレームで横で並べられて、交差する動作が見て取れない
  • 手が大幅に動き回ったが、よくあることだが、この場合まず左/右手が左/右手である同一性が表現されないと、左手が向こうに回ったか元々向こうにある右手が見えたのかが見分けられない
  • 背中の肌色と水着の赤色が画面で入れ替え繰り返すの普通には重要なヒントになれるが、水着の影色が背景に近いのと暴れる手の肌色に撹乱されるので役をうまく果たせなかった

次に頭部の動きをみてみよう。

個人的には、頭部だけだが体の動きよりも明確に回転を認識できた気がする。 その理由は単純である。以下の一連のフレームを見れば、頭部が位置を大きく変えず、比較的に長い時間で、 髪と顔との月相みたいな相対位置の入れ替えで回転を見せたのがわかるだろう。

そして2つのgifを合体…元に戻すと、2つの属性の相乗効果、名付けて「属性の配合」が見られる。 つまり「カオスな回転」というイメージが生まれる。(この形容詞が適切でないかもしれないが、他に考え出せないだけで、気にしないでください)

この例がシンプルでとても「相乗」というほどには感じないかもしれないが、 作画は自由に時空間を操れるので、現実でありえない組合せで属性を配合し、新しい感覚を生み出すポテンシャルがあることは垣間見えるではないだろうか。 以前、写真作品で、真っ赤で硬質で宝石のような柘榴の上にヌルヌルでツルツルで活き活きしたタコを被らせたものを見たことあって、なんだかこの世界で今まで存在していない新しい感覚が生まれて、それと同時にゾッとした記憶がある。

*1:物の同一性と図像/図形の運動のスムーズさは等しくない。一致しないことは多々ある。この記事を参照。

マンガ表現の連続的空間(前篇)

最初は伊藤剛先生の「テヅカ・イズ・デッド」の感想を書きたかっただけですが、考えるうちにどんどん発想が膨らんでいき、マンガ表現論の著作をざっくり浚って自分の中の表現論を少し形作りしてみました。認知心理学の概念をいくつか借りたのですが、正確性保証できないので、あくまで表現論に転用した言葉として寛容に見てもらえると幸いです。

曖昧な「コマ」と「枠線」の束縛

漫画批評の原点と称される『漫画原論』で、四方田犬彦は「漫画たらしめているのはコマの存在に他ならない」と「コマ」を漫画の決定的存在と位置づけ、「その周囲をとり囲んでいるコマ線で」具体的に作り上げているものと定義した。(1) 夏目房之介は「コマの基本原理を読み解く」で、「コマ」を「目にみえるものとしては枠線ですが,マンガを時間的・空間的に分節する抽象的な機能」と定義し、具体的な枠線から離れて機能面から暗示的に捉えようとした。(2) しかし、井上康が批判したように、「機能する実有・実質は,一体何であるかが問われる」「夏目もまた,コマを実在的な,枠線による一定の領域としても捉えている」(3)と、機能として定義したものの「コマ=枠線が囲んでいる領域」という従来の図式から脱出できず、かえって混乱招いてしまった。

混乱の原因はおそらく、機能としての「コマ」の主体即ち実体としての「コマ」が不明なままのため、前者で後者を指示するしかないであろう。 では実体としての「コマ」を定義する困難は言うまでもないが、その原因は何でしょうか? まず、少女漫画を除くほとんどの場合においては、「コマ」は自明的なものであるーー明確な枠線で紙面を明確に独立した複数の領域に分節するーー「コマ=枠線が囲んでいる領域」といった図式は正しいといって良いだろう。 この図式は欧米においては日本よりも自明視されているように見える。Thierry Groensteen は「コマ」(panel)を漫画の基本単位とする理由について次のように述べた。

The panel is presented as a portion of space isolated by blank spaces and enclosed by a frame that insures its integrity. (4)

枠線で明確に取り囲んだこその「コマ」とされている。この図式はかなり固定観念のように我々が実体としての「コマ」への認識を束縛している。

しかし、少女漫画には「枠線が囲んでいない領域」が様々な形で大量に生まれて、図式が破綻した。 漫画として「時間的・空間的に分節する抽象的な機能」はちゃんとされているーー機能としての「コマ」は存在するが、図式で定義した実体としての「コマ」はそこに存在しない。 つまり、「時間的・空間的に分節する抽象的な機能」するのは「枠線が囲んでいる領域」だけでないことがわかる。 勿論その取り残された部分を「コマ」でない他の何かに定義するのも間違っていないが、夏目が意識したように、機能する実体を完全ある「コマ」にするほうがキレイだと個人的に思う。

夏目は「コマの基本原理を読み解く」の中で、「どろろん忍者」の1ページにあるすべての枠線を取り払ってみると(そういえばここは「コマを取り払った」と書かれて完全に「コマ」を枠線と同一視された)、読めないものになってしまうといった実験を試みた。(5) しかしその後に少女漫画を紹介する時には、「枠なしのコマ」という概念を用いた。では、なぜ「どろろん忍者」の場合では図像たちが「枠なしのコマ」として働けないのか? 「コマ」は「枠線」に束縛ながらも機能から見ると曖昧であるのは示したが、ここでもっと重要なのは「コマ」はあくまでも中間的な概念であり、その上に「枠なし」を付け足しても本質まで到達することが難しいであろう。 本稿は「コマ」よりも基本的な形式から出発して、認知心理学の概念を引用しつつ新たなマンガ表現モデルの構築を試みる。

空間の非連続性

夏目の論述から最も確定的な部分を抽出してみると、それは枠線が空間を分節する機能を有しているのであろう。 もう少し具体的に言うと、本来平坦な一つの紙面空間上に複数の異なる空間を心理的に形成させる機能である。 本稿はこの心理上に認識されている紙面空間の状態とその度合を「空間の非連続性」と簡約して表現する。

空間の非連続性を発生させる形式を代表的な枠線を含め、(平面、奥行)x(図形的、内容的)との4種類に直感的な分類が考えられる。 そう簡単にはっきりと分類できるものではない(むしろ分類できないかと思っている)が、便宜上この分類に沿って空間の非連続性を説明していくことにする。

平面x図形的

図 2.1

図2.1が漫画の1ページとした場合、読者は二人の人物図像が据える(現実のではなく人物が居る「ストーリー」世界の)物理空間をどのように見るのだろうか。 ページ全体を一枚の絵として、二人が肩を並べているように見えるのが一般的かもしれない。つまりページ全体が1つ連続的な物理空間となっている。 しかし図2.2のように枠線で二人の人物図像をそれぞれ囲んでみると、状況が一変する。 恐らく多くの読者は、枠線で取り囲まれた2つの「枠」(「コマ」を回避して枠線で囲んだ領域を「枠」と呼ぶことにする)を「ショット・リバースショット」のように認識してしまうだろう。 勿論背景などの人物の位置や向きを示す要素が存在しないため、別の人物配置と認識する可能性もなくはないが、それは内容的な要素や発達的な面があるのでここで追求しない。 重要なのは、枠線はある種形式的な作用を持ち、二人の人物図像が据える物理空間を別にし、本来連続的と見た物理空間を分断することができる。 もう少し精確に言えば、二人の人物が居る物理空間は同じものと認識するかもしれないが、それぞれの座標系が紙面の物理空間の座標系に対するアフィン変換行列が違うということである。 読者は、二人の人物図像が異なる物理空間に据えると枠線に示唆された上で、内容(人物の視線、表情など)と経験で「ショット・リバースショット」として認識してしまったと考えられる。

図 2.2

ここで言う物理空間はまだ「空間の非連続性」の心理的な「空間」ではない。物理空間を分節する前提として、物質性(ストーリー世界の物質を表彰する性質)のない枠線が記号として紙面空間を心理的に分節し、「空間の非連続性」を形成させている。 枠線が持つこの記号的機能は漫画特有のものではなく、人類共通な認知能力に由来するものかもしれない。 夏目は「『表現論』から二十年」で、1666年中村惕斎の博物図「訓蒙図彙」の中で現れた「コマ」の例をとり挙げて「空間の区分である」と述べた。 他にも有名な「天狗通」を含めいくつかの例が挙げられたが、この一例でも枠線の空間を分節する機能がもっと原始的である可能性が考えられるだろう。 直感的に言えば、人は1ページ1ページで複数の図像を読めば(1ページを1枚の画像と認識できれば)、小さい画像を1ページに詰めて線で区分するのも理解し難くない。 線に区分された領域は実質各々ページになっているとも言える(次節で引用する中田健太郎の「シール」という形象も直感的である)。 14世紀の『ヘントの祭壇画』(図2.3)は複数のパネルで構成され、それぞれのパネルには違う物理空間が描かれているのが見てわかる。 *1 勿論ここに大きな違いが存在している。祭壇画についてはまず物理的なパネルが存在してあって、その中に絵を描き足すと自然に違う絵にできるが、枠線は基本的に絵に先だって存在するといってよいだろう。 しかしこの違いをこのように捉える事もできるーーパネルの分節機能は受動的であるが、枠線は人が「パネルみたいなもの」を記号化し、能動的に分節機能を利用したと。 ここの「パネルみたいなもの」とは、絵の世界の物質ではない別次元のものということで、枠線で言えば物質性のない記号性である。

図 2.3 フーベルト・ファン・エイクヤン・ファン・エイク『ヘントの祭壇画』1432年

というのが「純粋」な枠線だが、一部欠ける枠線も同じように機能できる。 図 2.4 では図 2.2 の枠線を一部消したのだが、2つの空間に見えやすいのは変わらないであろう。 これについてゲシュタルトの法則で直感的に解釈してみよう。 まず漫画の読者がたくさん枠線を見てきた経験の助力も受けながら、枠線は閉合法則によって補完され、完全なる枠線を想起させれる。 次に、枠線に切り取られた人物図像にも閉合法則が働き、間接的に枠線による空間の分断を表している。 そしてどちらにとっても枠線が「枠線」として認識されることが前提となる。 図 2.4の場合、連続・類同・単純性などの法則で真っ直ぐで太い線と人物図像の線と2つのブループに分けられ、その非物質性的な形と読者の経験と合わせて、はっきりとした記号性を持つ「枠線」と認識されるわけである。

図 2.4

逆に以上のゲシュタルトの法則による作用を抑えることで、「枠線」の記号性を濁し、物質性との両義性を付与し、わざと空間分節機能を弱める・曖昧化させることができる。 単純に枠線の太さを人物図像の線に統一させるだけでも、キャラ図像とのグループ分け作用が弱まり、キャラ図像の一部と認知され物質性が生まれる傾向が高まる。 欠ける枠線に関する論考でよく引用されるのに、手塚治虫が『ぼくのそんごく』などで使用した「人物が枠線を突き破る」表現がある。 夏目曰く「線とは本来多義的なものだ。(中略)ただ読みの形式であるコマは、それを一義的に抑制することで秩序としての役目を果たすのである」(7)。 線に物質性を与えることで、本来完全なる枠線に補完する閉合法則が弱まり、記号性が抑圧される。 したがって空間の非連続性が抑圧されるーー本来はっきりと分断された2つの空間が連続的な空間に近づいていく。

いろんな手段で記号性を曖昧化させ得るということは、完全なる枠線を持つ図 2.2 と枠線なしの図 2.1 の間に展開された連続的な表現空間を表しているのではないだろうか。 とはいえ、図 2.2 と図 2.1 は決してこの表現空間の両端ではない。 両方ともで、人物図像間の距離を変更することで、空間の非連続性を増減することも考えられる。 図 2.1の人物図像間の距離を極端に増やすと、「ショット・リバースショット」に見えやすくなるかもしれない。 内容的な側面もあるが、形式的には近接法則の作用が考えられる。

ということは、枠線が持つ記号性が空間の非連続性をもたらす唯一の要因ではなく、図形的な特徴もまた暗示的な要因である。 *2 この表現空間は記号でない図形的特徴と記号を基底として展開された表現空間と考えられる。 勿論記号もまた図形的特徴が凝縮されたものであり、正確な分類にはなっていないのだが、記号までになれない距離のような暗示的な要素を包括するためにあえてこのように記述した。 Richard McGuire の作品『Here』(図 2.5)では、ほぼ連続的な物理空間*3上で、異なる色調で複数の領域を構成し、空間の非連続性をなし得ている。 色調は図形的特徴であり、その鮮明さから一種の記号とも言えるであろう。

図 2.5 Richard McGuire. Here. p.175 各枠の左上に時間(年)が書かれている

そしてこの例を通して改めて注意してもらいたいのは、物理空間と「空間の非連続性」の心理的空間の違いである。 前者が後者の非必要条件であることはこの例でわかるはず。

奥行 x 図形的

「アニメのセルのように重層する少女マンガ型コマ構造」と、夏目は少女漫画の「コマ割り」をアニメのセル即ちレイヤーに比類した。 ここで確認したいのが2つ、平面である紙面上にレイヤー構造は存在し得るのか?そして「少女漫画的」といった限定的な存在なのか? 平面上に2つの図像が重なったとすると、水平方向においてズレがなければ下にある図像も見えないはずが、 水平的ズレがある場合にしても、見えた部分の間に奥行き関係をどう捉えればいいのだろう? 要するに見える図像たちは必ず水平方向上で離れていて、それらの奥行き関係はどう論じ得るかと。 実は Thierry Groensteen が The System of Comics で大きな「背景」の中に小さいコマが含まれた一例を論じた時に、 小さいコマの枠線を背景図像の内部枠線とみなし、小さいコマと背景図像とは併置しているように解釈した。(8) つまり小さいコマが背景図像の上に貼り付けた(重なった)のではなく、背景図像に穴が空いてあって、小さいコマがぴったりと嵌められて背景図像と1つだけの平面を形成したと、理解できる。 ただのイメージだが、西洋の漫画表現論ではレイヤーが論じられることが少ない。 日本では論じられるが、少女漫画とセットとして論じられることが多い。

レイヤーの存在

まずレイヤーは心理的に存在するという結論を上げる。 ゲシュタルトの地と図法則を考えればすぐに結論に着くが、あえて閉合法則を考えてみよう。 背景図像に穴が開いたのだが、人は心理的に穴を補完してしまう。 補完された図像と視覚に見えた図像と重なって、自然に見えるのが上(前)、見えないのが下(後ろ)と認識してしまうだろう。 少し内容的な(内容物を認識した上での)補完を述べたようだが、形式的にも認知心理学の分野で研究されている。 例えばT-Junctionを代表とするいろんな線と線の接合のしかたであるが occlusion cues として機能すると以前から論じられてきた。(9) また、線でなく形状に焦点をあて、形状がそうなった原因に人は想像してしまうという研究もされている。(10) ということは、一部欠けたような図像に対して、人はその原因ーー「重なり」を自動的に考えるのである。 もう一つ直感的な見方を提示してみたい。人は2つの目で三次元を認識しているが(binocular cuesによる奥行き知覚)、一つの目を閉じても普通な環境なら三次元を認識できるはず(monocular cuesによる奥行き知覚)(11)。 なら、紙面からのbinocular cuesに抑圧されるかもしれないが、monocular cuesによる奥行き知覚の働きも存在しているであろう。 注意しておきたいのは、ここの分析は枠線に限らず、枠線なしの図像の間でも、線と線の間でも適用している。

中田健太郎は「シール」という形象を用いて図像の上に重なる図像を形容し、「三次元性とは異なるしかたで、二次元性が多重に認められる場所が開かれるのだ」と述べた。(12) 詳しく説明されていないが、恐らく「シール」やアニメのセルなどの媒体を基に考えられた性質であろう。 「上下関係はあるが距離はない」というふうに考えれば確かに三次元ならぬ多重の二次元だと理解できる。 明確な定義は中田にはされていないが、ここでは「距離」の有無を「三次元性」の基準にしておく。 しかし重なる図像の間に「距離がない」とは限らない、「距離がない」と言えるのは「シール」という概念が「枠線」で限定された「コマ」という概念・思考に根ざしているからである。 ちょっと前衛的な例を作ってみた(図 2.6)。 線だけを見ると、ほとんどの読者は1つ連続な空間を認識し、左の人物が右の人物の後ろにくっついて居るように捉えるかもしれないが、 二人がそれぞれ別空間にいて2つの「枠なしコマ」が重なったとも捉えれるではないだろうか? 灰色の地を加えたのはまさに後者の見方を強調するためであった。 例えバブルや擬音などでも、影をつけることで距離を与えることができるーーこれもまた物質性と記号性との両義性に由来するものである。 中田が思う「シール」という言葉は、記号性の強い形で囲まれ、明確に下にある図像と別空間を持つ図像を指しているが、 前節で論じた空間の連続性の曖昧さのゆえに、「シール」もまた曖昧でなければならないのであろう。 「多重の二次元性」を「シール性」とするのもいいが、漫画表現空間の全体を言うと、三次元性と多重の二次元性は混在するという結論に至る。

図 2.6

ただし一般的な三次元空間と異なるところはまだ存在する。 図形的な特徴がもたらした距離感はあくまで心理的なイメージのゆえ、互いに統一しない可能性もある。 具体例として線と線の接合の種類(XYT-Junction)は局所的に三次元的な印象を喚起すると認知心理学の文献で提示されている。 (13) また、レイヤーではないが(レイヤーの形にも描ける)ペンローズの階段も局所的な前後関係が全体において統一しない一例である。

そして多重の二次元性が「枠線」のように記号的な分節機能を持ち、空間の非連続性を発生させることができる。 しかし平面的な場合においての「距離」は物理的な距離とも紙面上の形式的な距離とも捉えられるが、 三次元性の「距離」は物理空間での距離を指し、レイヤーが物質性持たされたからこその性質であり、連続的な物理空間を前提とすると言ってもいいかもしれない。

レイヤリングの一般化

さて、レイヤー構造は「少女漫画的」といった限定的な存在なのか、という問題に移っていく。 以上の議論を踏まえれば、レイヤー構造はさほど限定的なものではく、枠線が重なれば現れるということは言うまでもないだろうが、ここでもう少し詰めたい。

中田はバザンとドゥルーズが論じてきた「フレーミング」の対概念として「レイヤリング」を捉えた。 (14) 前者の「フレーミング」理論の簡単にまとめると、バザンは絵画と映画との(物理的な)フレームをそれぞれ「フレーム」と「マスク」に区別して解釈したが、 ドゥルーズは(物理的な)フレームが異なるのではなく、フレームが画面と画面外との関係性において、絶対的と相対的との2つのアスペクトを持っていると考えたようだ。 それで中田はフレーミングの垂直方向に対概念として「レイヤリング」を提唱し、「シール」という形象を利用した。 しかし、レイヤリングとフレーミングとは異なる位相の概念で、並べるのが不自然に見えた。 平たく言うと、それらは同じ全体の2つの分け方だけであって、「整数」を「正数・負数」と同列にしたような印象だった。 「フレーミング」が着目した「画面外との関係性」という文面を見ても、シールをも包摂しているはずであって、逆に「フレーミング」を当たり前に平面として扱うのも懸念点である。

バザンが提唱した「フレーム」と「マスク」との概念を抽象的概念でなく、形象として想像してもらいたい。 「(絵画の)フレーム」はまさに壁の上に貼り付けられた「シール」であり、「マスク」もまた画面上に敷いられた穴の空いた黒い幕である。 つまり、この2つの概念の成り立ちにはすでに「レイヤリング」の働きが存在しているのだ。 ドゥルーズが批判したように、絵画であっても映画であっても画面外との関係は基本的に存在する。 としたらバザンのいう「フレーム」と「マスク」の違いはどこに依拠するだろうか? バザンによる原文はかなり短くて正確に突き詰めるようがないと思うが、自分なりの解釈をしてみれば、 画面内の内容物=図像が画面外への延長を想像するのは知覚の性質であり、物理的なフレームのタイプによって遮断されることはない。 しかし図像が乗せられた媒体にとっては違う。 絵画のフレームは媒体としてのキャンバスと絵の具(或いは「絵」という形式)を切断するが、映画の場合、実際の媒体が銀幕だが図像のリアリティの上に、撮影された物理空間が媒体として認識されてしまい、映画のフレームに断ち切られないこととなる。 リアリティ辺りは別の話題になりますのでここまでにするが、画面外の関係には図像と媒体との2つの主体が考えられて、そして混同されやすいという点を抑えておきたい。 直感的な例でいうと、壁に飾った絵画のフレーム外には絵が描かれていないーー絵という形式がそこにないと思うのに対し、穴を開いたマスクを絵画の上に掛けると、フレーム(=穴の縁)の外にも絵は描かれていてマスクに隠されただけと思ってしまうだろう。 これこそが、キャンバスという媒体の画面外との関係から生じた現象である。

実在するフレームとマスクと違い、漫画の枠線はむしろ前述通りに実在するシールやマスクなどを表象して記号として機能する。(シールがフレームよりイメージしやすいため以降「シール」を使う。) そして前節で説明した枠線自体だけでなく、レイヤリングの形態(シールかマスクか)もまた多義的である。 図 2.7a で示したように、単純な枠線自体の記号性は強い反面、レイヤリングの側面から見ると、人によってはシールにもマスクにも又は平面にも捉えることができる。「影」を足してみると枠線はシュレディンガーの猫のようにどちらかに収縮する。 また、枠線を改変せずに、内容として描かれたものにゲシュタルトの法則とT-Junctionなどの図形的要素を用いれば、枠線のレイヤリング形態も変わる(図 2.7b)。 つまりレイヤリングは普遍的に起きうる・起きている、その結果は一定でない曖昧な状態で平均値として平面に見えるかもしれないし、明確に「シール」に見えるかもしれない。または局所による全体の不統一な状態かもしれない。

図 2.7

内容的

描かれた内容物を認識された上で、比較的に事後に空間の非連続性を発生させることもできる。 ここまで見てきた形式要素を顧みると、キーアイデアは明らかで簡単であるーーどんな図像が一枚の絵に見えるか、もしくは見えないか。 この問題を内容面で考えるのはむしろより直観的であろう。

最初に Understanding Comics から引用した図 2.8を見てみよう(※原文は完全に別の話)。 右二枠内の空間の連続性と左二枠のそれを見比べると、明らかに右二枠の方が高いと言えるだろう。 左二枠内の人物図像は図 2.7(b) みたいな形式的な関連性がないものの、対面に座って会話しているように見えて、一つの連続的な物理空間として認識しやすいである。 空間の非連続性も抑えられ、左二枠を一枚の絵として見ることも可能になっている。 そしてこれによって、レイヤリングも「マスク」の形に収縮している。

図 2.8 Scott McCloud, Understanding Comics, p.101

右二枠は、人物図像の同一性によって、一つの空間では決してありえない。 この特性を利用すれば、同じ物理空間内で同じ人物を複数配置できるのだ。 図 2.9 のような表現は漫画において少なくないであろう。 図 2.8 の左二枠が枠線で分断されたが一定の連続性をなしているのと逆に、図 2.9 は枠線なしの連続な物理空間の中で非連続性を生み出している。 改めて注意したいのは、この例で複数の明日ちゃんの図像が占めた異なる「空間」は「物理空間」ではなく「心理的な空間」である。 非連続的な物理空間は「空間」の非連続性を呼び起こすが、連続的な物理空間は必ず「空間」の連続性につながるのではない。 (この例の「空間」は物理的「時空」に関連していると察している方が多いかと思うが、時間との関連性は後の章で説明する。)

図 2.9 博「明日ちゃんのセーラ服3」、「明日ちゃんのセーラ服1」

それでも直感しにくいのであれば、一つ思考実験をしてみよう。 図 2.9 で、既存の枠線を削除してから、漫画経験者に適切な枠線をつけてもらったらどうなるでしょうか? あくまでも推測だが、全ての人物図像が異なる人物の場合は画面全体を囲む、元の場合は更に小さい枠を描き足す傾向にあるかもしれない。 漫画読む経験のある人にとっては、枠線は分節の記号であり、枠線を描き足す行為が読む際の分節しかたの露わではないだろうか。 図 2.8 にも同じ実験をしてみれば、恐らく多くの人は右の人物図像に一つの枠を、そして左の二人の人物図像に一つの枠を描き足すであろう。

もう一つ重要な内容的分節手法として、内容自身が表した空間の違いというのが挙げられる。 図 2.10 のように、顔のクローズアップの隣若しくは上に身像を置くと、枠線がなくても顔と身像と各々表した空間が一致しないゆえ、空間の非連続性が明確に見て取れる。 必ずしもスケールやアングルなど物理空間を直接に表すものでなくとも、光の方向、風の向き、文脈で事前にわかった人物たちの位置と向きなどいろんな要素で空間の違いを表現できるのだ。 また、図 2.1 でも視線と表情との内容的な要素が含まれ、枠線なしでも「リバースショット」という認識に誘導する作用を持っているのである。 そして二人の図像間の距離を増やしたり、上下ずらしたりすると、その不自然さに二つの物理空間を感じれてしまう可能性もある。

図 2.10 樫 みちよ『彼女たち』表紙絵

オブジェクト、まとめ

ここまでは枠線を基に空間の非連続性を論じてきたが、そのため記号的要素と物理空間の非連続性とに偏ってしまっているので、 ここでは「オブジェクト」の存在自体が引き起こす空間の非連続性に焦点を当てたい。

まず図 2.1 に戻って、(厳密に言えば内容的である)物質性やら記号性やらを導入する前に、人物図像が人物であることも忘れて単純な図形として見てみると、 この図に二つの図像があることがどう言えたのだろうか? ゲシュタルトの法則を引けば容易い疑問なのだが、重要なのはこの当たり前すぎる見方に疑問を持つことである。 例え図 2.1 に背景が描かれ、一枚の写真の様に空間も時間も連続的であっても、枠線を描き足す実験をすれば、 人物図像が半分ずつ枠取られるのではなく、丸ごとに枠取られることが多いであろう。 心理学的なオブジェクトは必ず物理的なオブジェクトに対応するのでなく、ゲシュタルトの法則に組織化された知覚の単位 (perceptual unit or group) である。 その表象が物質性と記号性を持ってオブジェクトと記号へと分化していく。

さて、空間の非連続性を形成する要素を図 2.11 に整理してみた。

図 2.11

「S」字の曲線は二つの要素は完全に独立した概念ではなく、連続的な表現空間を開いているという意味を表している。

物理的時空間の非連続性の形成の3つのルートを改めてまとめておきたい。

  • (a) オブジェクト間の時空間の不一致(図 2.9, 図 2.10)
  • (b) 物理的時空間が明確に描かれていない場合、記号が空間の非連続性を引き起こし、それ故異なる時空間を認識してしまう(図 2.2)
  • (c) 物理的時空間が明確に描かれていない場合、図形的特徴が連続的な物理的時空間の認識を妨げる(1節目で言及した、図 2.1 の二人間の距離を増やすケース)

物理的時空間が明確に描かれていない場合に、人は自然に手がかり(オブジェクトが表した空間やオブジェクト間の関係)を見つけてそれを構築しようとするが、 手がかり自体に矛盾がある場合や間を開けて手がかりの信憑性を薄くした場合には、連続的な物理時空間が立ち上がらず、非連続性が浮上するのである。

注意単位と空間構造

前に提案した思考実験は読者がどこを枠取り、空間を分節したかを露呈させようとした。 この行為はカメラのファインダーを通して紙面の一部を切り撮り、フレーミングされた画面が一枚絵として見られることとなる。 それが空間の非連続性に分節され、空間の非連続性に相対した連続性を持つ紙面空間であり、読者が注意をおいた心理学的オブジェクトである。

Object-based attention という概念を確立させた John Duncan は当時の論文で以下のように述べた。

... focal attention acts on packages of information defined pre-attentively and that these packages seem to correspond, at least to a first approximation, to our intuitions concerning discrete objects. (15)

本稿で言う「分節された心理学的オブジェクト」(以下「オブジェクト」)はまさに「pre-attentive packages」という言葉に当てはめると考えられるのだ。(偶然だが「discrete」という言葉もまた「非連続性」と合致している。) 繰り返すが、オブジェクトは実在する物体でなく、「a coherent unit」即ち「情報の一塊」を表す概念で、自然に人の注意を誘導する作用を持っている。(16) *4 言い換えれば、紙面上には空間の非連続性によって形成された、潜在的に注意を吸引するオブジェクトが大量に(無数に)存在しているのだ。 それらを本稿は「注意単位」と名付けておく。

つまり読者が漫画を見る際は、視線を断続的に動かす (fixation - saccade) と同時に注意 (covert attention) を置くのだが、 その fixation・注意を誘導する踏石となるのが「注意単位」であると考えられる。 空間の非連続性の曖昧性の故、注意単位は強度それぞれで無数に存在する。 そして重層的構造である注意単位がもう一つの注意単位に含まれるように見えても、二つを割り切って注意することも可能である。 その理由として、選択的注意(selective attention)は動的に範囲を調整することができ、単純に視野の一部範囲を切り取るだけではなく、オブジェクトに絞ってそれに関連するだけの情報に注目することができる。 例えば Daniel Simons が実行した inattentional blindness に関する有名な実験 (17) では、注目されているボールが通りすがりのゴリラと画面上で重なったとしても、ゴリラは無視されやすいのである。

マンガ表現論の文脈で「注意単位」と似たように、静的な紙面よりも読者の動的な見方に着目したのが、伊藤剛が『テヅカ・イズ・デッド』で提案した「フレームの不確定性」だった。(17) むしろ本稿はそれに啓発され発展したものである。 ここは岩下朋世の洗練されたまとめを引用する。「フレーム」とは「マンガにおいて『画面』と認識されるもの」、その不確定性とは「『コマ』と『紙面』のどちらに属するものか、一義的に決定できない」(18) ということである。 例えば人物が枠線を乗り越えている表現に対して、フレームはどちらかの枠に属するか紙面に属するかが不確定的な状態だと言える。

しかし「コマ」か「紙面」かの二元論には難点がある。三輪健太郎が手塚の『エンゼルの丘』の1枠しか描かれていない見開きページを取り上げて伊藤を批判した。この例で伊藤の二元論を適用すると、枠がページそのものになっているため、不確定性はない。しかし欄外に書かれている「ぜんぶでなんびきいるか、かぞえることができますか?」という文章は読者の視線を亀の群れの絵の中に泳がせる (19) ーー視線若しくは認識される画面は不確定であった。

図 2.8 を見返してみれば、左二枠も一つ大きな「フレーム」になれるはず。 というようなケースに気づき、野田謙介が「上位のコマ集合」を提案し、またコマよりも小さい単位の存在を「下位のコマ集合」と、階層的な構造を提案した。(20) 続いて伊藤は三輪の批判と野田のモデルを踏まえて「多段階フレーム」を提案した。 「目」「瞳」「コマ」「紙面」を主な軸として多段階フレームモデルを構築したが、フレームは静的でないと補足し余地も残した。(21) マンガにおけるアイトラッキング実験から見ると、目や顔が注意に対する吸引力はたしかに大きいである。(22) 伊藤は人の注意の特徴に鋭く気づくだが、確定的で「コマ」を中心とするモデルからは離れなかった。 以下の論述を読めば、「枠線」の特権化は明白に見えるのであろう。

ひとつは言うまでもなく「線で枠どられた領域」であり、もうひとつは「線で枠どられていないが、ある境界があると認識され、その境界の『内』と『外』が分かたれると認識されるもの」(23)

野田の集合構造と伊藤の多段階モデルの共通点としては、「コマ」を中心とし、包括・被包括の木構造を構築していた。 枠線・枠は丸ごとフレームに包括されるか、もっと小さい何かを丸ごと包括するか、といった明確の従属関係を持つ構造であった。 しかしフレームとフレーム、フレームと枠線、枠線と枠線は交錯したり重なったりする。 例えば図 3.1 のように、二人の人物の一部を囲んでそのやり取りを強調する表現があるが、 ここで主に考えられるフレームが3つあり、重なっているのだ。 もしもっと小さい単位として右の人の右耳を考えると、枠線と右の人物(が持つフレーム)に同時に属することになる。 また、図 3.1 の逆バージョンとして、図 2.7b 左の状況を見てみれば、連続するような線分が二つの枠を跨るフレームを形成しているとも言えるであろう。 枠線を特権化せず、本稿が論じてきた連続的な「空間の非連続性」を基に「フレーム」を考えれば、フレーム間の錯綜で木構造が成り立たないことが明白にわかるのだ。

図 3.1

「画面として認識される」・されない傾向を具体的にかつ枠線を特権化せずに描写するのが空間の非連続性である。 尺度としての空間の非連続性は連続的であり、その傾向の度合いを表している。 内部の相対的連続性と外部との相対的非連続性から「認識され得る候補となる画面」としての注意単位が無数に生み出され、紙面に散在する。 紙面空間における注意単位達のあり方を「空間構造」といい、単純な木構造でありえないことは先程論じてきた。 空間構造の最も近い表現としては人工知能分野で Object Detection と Instance Segmentation モデルの出力形式かもしれない。 図 3.2 では認識された物体の範囲とその信頼度が描画されている。(信頼度が閾値以上の結果のみが出力されて実際はもっとある。) 信頼度というのは人間が自分自身の「客観的」基準から見たAIの正しさであって、もしAIの主観から考えると、 「オブジェクトとして認識される」範囲とその傾向が表されているとも言える。 注意単位とは地続きがあり、その表現の形も空間構造に通用できると考えられるのだ。 この空間構造の上に内容的に従属関係が見い出せるが、木構造でのような絶対的な存在ではなくなった。

図 3.2 Object Detection and Instance Segmentation (24)

しかし、完全に散在する構造だけでは不十分である。 読者は1つの人物図像の顔に注目してから手に目を移したりすが、これらの部分ごとに時空間を分節することはない。 注意単位間の関連性をもモデルに含めなければならないのだ。

ここまで空間を主軸に論じてきた注意単位と空間構造とのモデルは静的であることを注意したい。 読者が次に注意しようとするのは必ず強い注意単位には限らない、現在注意しているものに(空間構造の側面でも内容的な側面でも)関連している。 特に内容的な空間の非連続性の形式は一部事後性を持ち、静的モデルで表現されることが難しいである。 そのため、空間構造をベースに時間を取り入れダイナミックのモデルを構築する必要がある。

参考文献

(1) 四方田犬彦 『漫画原論』 p.35。

(2) 夏目房之介 『マンガはなぜ面白いのか』 p.91。

(3) 井上康 「何がマンガ言語世界に於ける〈言葉〉であるか―― 線の運動〈場〉の弁証法 ――」『京都精華大学紀要』 第三十三号 p.252。

(4) Thierry Groensteen. The System of COMICS. Chapter 1.1.

(5) 夏目房之介 「コマの基本原理を読み解く」『別冊宝島EX マンガの読み方』 p.169。

(6) 夏目房之介 「『表現論』から二十年」『マンガ視覚文化論』 p.56。

(7) 夏目房之介 「「間白」という主張する無」『別冊宝島EX マンガの読み方』 p.187。

(8) Thierry Groensteen. The System of COMICS. Chapter 1.10.

(9) Rubin N. The Role of Junctions in Surface Completion and Contour Matching. Perception. 2001;30(3):339-366. doi:10.1068/p3173.

(10) Spröte, P., Schmidt, F. & Fleming, R. Visual perception of shape altered by inferred causal history. Sci Rep 6, 36245 (2016). https://doi.org/10.1038/srep36245.

(11) 梁宁建 《当代认知心理学》。

(12) 中田健太郎 「切りとるフレームとあふれたフレーム」『マンガ視覚文化論』 pp.338-339。

(13) Sayim B and Cavanagh P (2011) What line drawings reveal about the visual brain. Front. Hum. Neurosci. 5:118. doi: 10.3389/fnhum.2011.00118.

(14) 中田健太郎 「切りとるフレームとあふれたフレーム」『マンガ視覚文化論』 p.345。

(15) Duncan, John. "Selective attention and the organization of visual information." Journal of experimental psychology: General 113.4 (1984): 501.

(16) Kimchi, R., Yeshurun, Y. & Cohen-Savransky, A. Automatic, stimulus-driven attentional capture by objecthood. Psychonomic Bulletin & Review 14, 166–172 (2007). https://doi.org/10.3758/BF03194045

(17) 伊藤剛テヅカ・イズ・デッド』。

(18) 岩下朋世 『少女マンガの表現機構』 p.41。

(19) 三輪健太朗 『マンガと映画』 p.278。

(20) 野田謙介「マンガにおけるフレームの複数性と同時性についえーーコマと時間をめぐる試論(一)」『マンガを「見る」という体験』 p.100。

(21) 伊藤剛「多段階フレーム試論」『マンガ視覚文化論』 p.309。

(22) Mikkonen, Kai, and Ollie Philippe Lautenbacher. "Global Attention in Reading Comics: Eye movement indications of interplay between narrative content and layout." ImageTexT 10.2 (2019).

(23) 前出 伊藤剛「多段階フレーム試論」『マンガ視覚文化論』 P313

(24) Shaunak Halbe. Object Detection and Instance Segmentation: A detailed overview (Link)

*1:祭壇画という特殊な形式でなく一般的な絵画にも「コマ」が見られる。例えば12世紀コッポ・ディ・マルコヴァルドの「玉座の聖母子」。

*2:距離を考えた場合、ゲシュタルトの近接法則の作用が考えられる。

*3:時間が異なるため図像が完全に連続しているわけではないが、完全に連続した画像だとしてもこの表現は成立する。下側の室内っぽい部分は一旦無視する。

*4:本稿でのオブジェクトは認知心理学で実験されていたオブジェクトより複雑で、物理空間の非連続性によっては空白も一オブジェクトに成りうる。ただそれでも「a coherent unit」という定義からは離れていない。

Attention 機構と記号の身体性(メモ書き)

記号は人の現実経験を蘇らせて身体性を持ち得る。 人から見ると、記号によって現実経験に基づいたリアルな感覚を体験できる。

記号 → 現実経験 → 感覚

写像のようにこの過程を表現できるが、記号と現実経験は決して一対一の関係ではない。 人が経験した現実は有限であるが、記号は無限にある。 記号a → 現実A 等々とすると、記号には a と b の間に両方でもないものが無数に存在する。 では上記図式は如何にして成り立つか?

  • 感性 f ← 現実経験
  • 感覚 = f (記号)

である。

感性は、現実経験によってチューニングされ続けてきた連続的空間である。 よって、連続的記号が感覚への連続的写像が可能になる。

Function Approximation と同じである。 その中で特に類似するのが Attention である。

有限な Key-Value ペアで構成される「辞書」で、クエリ Query で相応の Value を取得するが、 Query は必ずしも辞書に存在する Key のいずれかに一致しない。 しかし、行列計算によって写像は可能である。

value = Q K' V

ここで、

  • Q = 記号
  • K = 経験
  • V = 感覚

『フリーネ』の漫画関連情報のメモ

昨日国会図書館に行ってみた。19時閉館と思ってたが17時だった…ので詳しく読めんかった。主に漫画の情報をメモしてきた。

全体の構成

簡単にまとめると、

  • インタビュー2本:松浦理恵子、シュー・リー・チェン
  • 小説8本:「天使の天敵」「モノクローム」「天国への螺旋階段」「ジューン・ブライズ」「姫百合たちの放課後」「デヴィエーヌの幻影」「レディキラー・レディ」「渇き」
  • 漫画15本:「リカって感じ!?」「女の子のたのしみ」「P=NP?」「サリューん〜ほしふる宇宙〜」「NOMIA」「浮遊するからだ」「人形店」「ギョーカイ通信」「とりさんとりさん」「妹の結婚式」「リリカとちひろのトキメキ♥ライフ」「人形たちの部屋」「華清残照」「意地悪な神様」「森へ帰ろう」
  • エッセイ4本:「ポルノとキャンディ」「ああ、マンボウな日々…」「チョト待テクダサイ」「『レズビアン』って誰のこと?」
  • READING:
    • フリーネFLASH:強く美しい女性たちを紹介
    • フリーネWorld:当事者たちが書いた経験談とか(詳しく見れてない)
    • フリーネNetwork:スポット情報、パーティー情報、マンガ・本情報、友達募集コーナー といった構成である。

カルチャー・ガイド

「フリーネNetwork」に位置する。 同人誌、コミック、BOOK 日本編、BOOK 海外編との4章で構成されている。執筆者は本誌編集者の彩女さんと萩原まみさん。

まずタイトルの横にこういった前書き(?)が書かれている。

流行っているかいないのか、以前に比べれば着実に増えつつある♀♀カルチャー。♀♀の手による共感できる作品がまだまだ少ないのが残念だけど、フリーネ編集部のオススメ作品をジャンル別に紹介するね!

同人誌

女性による♀♀モノはまだ全然少ないみたい。 ♀♀本のルーツは今から7〜8年前、かわいい服を好む女の子たちが作っていたピンクハウス本なんだって。 もう一つはやおいから派生した。 現在の流行りはセーラームーン赤ずきんチャチャ、レイヤース。

  • セーラームーンアンソロジー「ルナティック・パーティー
  • 「少女草紙」人形写真
  • 「さみしい手足」漫画、日常の心の揺らぎ
  • 「LAVENDER OF ROMANCE・2」スフレとバイク買いに行くエピソードがユニーク。
  • 「LABRYS」の『XX(くすくす)』♀♀による♀♀用語解説や対談

コミック

BOOK 日本編

最近♀♀の本多いよね。

'92の「ゲイの贈り物」、'93の「耽美小説・ゲイ文学ブックガイド」以降のものを最新として紹介

  • 「猫背の王子」
  • 「微熱狼少女」性描写を力強く
  • 「ソドムとゴモラの混浴」
  • 「業火」♀♀因果な部分だけを強調、最近と思えないネガティブさ
  • 「包帯を巻いたイブ」自意識が同性愛に邪魔
  • 「あぶない学園」シリーズ
  • バガージマヌパナス
  • 「魔法使いが落ちてきた夏」

BOOK 海外編

  • 「愛しの失踪人」
  • 「捜査官ケイト」
  • 「死体農場」
  • 「パーフェクト・プレイス」
  • 「サフィストリーーーレズビアンセクシャリティの手引き」
  • 「私の目をみてーレずビアンが語るエイジズム」

本誌のコミックについて

ほとんどが数ページの超短編で、4コマが数本、ポエムに挿絵をつけるみたいなの(専用名称あるのかな…)と数枚の絵を並べただけって感じなのもある。 ちゃんとした「ストーリー漫画」は少ないだね。印象的モノをピックアップしてみよう。
(著者をメモし忘れてごめんなさい…今度行ったら補完する…)

以下、ネタバレ。

『リカって感じ!?』

短いけど、本誌のコミックの中に一番有名なものかもしれない。ググればwikiページも出てくる。

話はリカが2丁目デビューして、誤解で初めて知り合ったミホちゃんを自宅に連れて帰る、という数ページ分の簡単な話だ。

『女の子のたのしみ』

グラスやケーキやレースなどの例を通じて、女の子の間にある五感と感情の共感を描き、 それは「男ではわからない」、「男にはわからせてあげない」と、女同士関係の特別性を主張するもの。 もちろんストーリーではない。

『P=NP?』

タイトルが示唆している通り、数学系の主人公が好きな相手に告白して、付き合うことになったが、 相手の気持ちを確信できず、不安のなかを過ごし続ける自分はどうすればいいか、という難問を、 相手が打ち解けてくれたはなし。短いので展開はシンプル。

『浮遊するからだ』

個人的に一番好きな作品。まぁ他より長いのも大きいだが…

死んだ友達理恵にペニスがあって、彼女とセックスする夢を見た。それが「全て生前私が彼女に期待してたことだ」。目覚めた主人公は男のベッドにいる。

回想:主人公はりえが好き、理恵は陽子が好き、でも陽子がのんけ。主人公は理恵を遠ざけるために男と付き合いはじめ、でも心は満たさない。

男のベッドで目覚めた主人公は思う、男としか寝たことない、ペニスでのセックスしか知らない。「体はペニスに馴なされて、心は理恵を求めてやまない」「なんてマヌケな女なの」

結婚する陽子から連絡がきて、会って話し合う。陽子は理恵にキスされてひどい拒みかたした罪悪感を告白。 主人公「陽子、キスしていい?」と聞き、自分も男好きだから安心してと嘘ぶって二人はキスする。「理恵の愛した陽子に触れてみた」

おわり。

いやいや、これはマンガ専門誌に乗せても全然目を引ける良いストーリーモノだよな。 最後のキスは、忘れられない亡き人に触れたいのと、異性愛者を偽装してりえの失敗したキスを「成功」させるといった2重の意味で痛々しい… たまんねぇ…(おい)

『妹の結婚式』

リアル系のストーリー。母へのカミングアウトも描かれている。 最後にある妹との対話が重要。

妹「男も女も好きなら関係ないよね」
主人公「それはちょーっと違うなあ」

感想

まず目的である百合漫画紹介については、収穫がなかった… そもそも Lily Matrix さんは絶対フリーネを読んだことあるから、情報を漏らすわけないだろう。 でもここでしか読めない『浮遊するからだ』を読めたのは嬉しい。(じゃなんで先生の名前を覚えんだよ!)

漫画以外はざっと眺めただけの感じだけど、全体のイメージとしては、「前向き」と言ってよいだろう。 まぁ本誌が誕生できた自体が結構希望のあることなので、それはそうか。

内容の振れ幅・バランスも結構いいじゃないかなと感じる。 Vol.1 だから寄稿者も張り切ってるというか、構成を考えられるリソースの余裕があるというか。 Vol.2 になると、明らかに内容の不足で、文通コーナーが四分の一くらいを占めるほどバランスが壊れた…(四分の一はただの感覚)

機会があれば残りの内容も読みたい。

【Blenderアドオン開発】WorkSpaceTool のアイコンを自作するメモ

WorkSpaceTool のアイコンとは

blender custom iconとかで検索したら、出てくるのがほとんどボタンとかで使うアイコンの話です。*1

ここで自作したいのが WorkSpaceTool の アイコンです。 というのは 3Dview の左側に並んでるツールたちのアイコンです。今回適当に作ったのが下になります。

f:id:NikuKikai:20210317020710p:plain

作り方

作り方自体は 公式 wiki に書かれてますが、シンプル過ぎてわかりにくいので、もう少し明確にまとめておきます。

アイコン編集用の.blendファイルでアイコンを作ろう

まず wiki に載ってある リンク から、icon_geom.blend を入手して開きます。

このファイルの内蔵 readme にアイコンの追加に関する説明が書かれて、それに沿って、新しく作るのもできますが、Exportコレクションに入れるとか面倒臭いんで、既存のアイコンを Edit Mode で改造するやり方を取ります。

なんのアイコンを改造したかを覚えときます。(例えば、ops.transform.rotate

アイコン生成スクリプトを入手

blenderGithubから このスクリプト を入手します。(ダウンロードより、コピペが早いっすね)

仮に C:/blender_icons_geom.py とします。

コマンドでアイコン生成

絶対パスで表したコマンドが以下になります。(Windowsの場合)

{blenderのルートディレクトリ}/blender.exe {icon_geom.blendのディレクトリ}/icon_geom.blend --background --python C:/blender_icons_geom.py -- --output-dir={適当なところ}

注意:wiki では、出力フォルダをblender のツールアイコン保管してるフォルダに指定してますので、上書きしちゃいます…今回は既存アイコンを改造したので、必ず別の所にします。

アイコンを使う

出力フォルダに、改造したアイコンファイル(例は ops.transform.rotate.dat )を探し出し、名前を変更します。(例 myaddon.sampletool.dat

手動で{blenderのルートディレクトリ}\datafiles\icons\ に入れます。

例えば、C:\Program Files\Blender Foundation\Blender 2.90\2.90\datafiles\icons

アドオンインストール時に自動で入れさせる方法は、公式APIには用意されてなくて、Pythonでファイルのコピペをするしかないらしいです。(権限で拒否されたらお手上げ)※参考

Python では、WorkSpaceTool の bl_icon というクラス変数に名前入れれば、ロードされます。

class Tool(WorkSpaceTool):
    bl_icon = "myaddon.sampletool"
    ...

以上です

*1:一応その「アイコン」の自作に関するリンクも貼っておきます→ Link

田村俊子「春の晩」 入力

底本:『田村俊子作品集・2』

くの字点は「/\」で表す

※入力できない旧字体新字体を使う

※ルビは《》で表す

青空文庫田村俊子さんの作品のほとんどが10年以上校正待ち状態になってたので、青空に入力しても、校正される可能性が低い。また入力できない旧字体の扱いはしたくないので、ここで入力することに決めた。

旧字体が不完全で、校正もないため過ちがあるかもしれないので、引用などは慎重にしてください。

 

 

幾重《いくへ》はふと雨の音に心付いて窓の方を見た。窓が開けはなしてあつた。いつの間にか强くなつた雨の餘沫《しぶき》が窓の敷居を濡らしてゐた。そこから見える夕方の雨の空に白絹のやうな光りがあつて、ぽち/\と雨の雫が水晶の點々を並べてゐる楓の枝の薄紅い芽の色に、その空の光りを映ろはせてゐた。垣根の傍の椿の花もあざやかに群つてゐる綠の葉の中からピンクの色を俘かしてゐた。幾重は立つて行って窓から外を覗いた。

樹が雨に打たれながら、明るくぼやっとしてゐた。斜《はす》かいに見える軒燈の灯が艶消《つやけ》しがらすの球の中にほっかりと滲染《にじ》んで、頰紅のやうな和らかい春の宵の色を包んでゐた。雨にむせてる丁子の匂ひが甘くなまめいて窓のほとりを流れてゐた。

幾重はしばらく立った儘で、灯も花も綠も、蕩《とろ》かすやうにさっと霞《かす》めて降ってゐる雨を見つめてゐた。しづかな、しっとりと强い雨の響きのなかに、何か女の胸を甘やかすやうに咡《さゝや》く祕密なものが含まれてゐた。幾重はその咡きにそゝられながら、うつとりとした。

「なんて、いゝ雨だらう。」

幾重はしみ/\゛と然う思《おもひ》ながら、いつまでも、雨の降るのを見てゐた。少し顏を上げて、家根より高いところから降る雨を眺めたりした。空の光りが優しくなだらかに雨のなかに溶けてゐた。幾重の昔の戀の思出をどこかに隱して、春の雨は限りない情緒を織り込みながら生ぬるく幾重の白い額にしぶいた。幾重の前髪が、霧のやうなこまかい雫にはら/\と濡れた。

「なんて、いゝ雨だらう。」

幾重は然う思っては雨を見た。雨はさあと快よい音を立てゝは、また忍び音《ね》に軽く降った。幾重の心に、十何年も前の初戀人の若い姿がふと色めいて懐かしく俘んだりした。思ひ合つたばかりで何うともならずに別れてしまったある男の面影が、愁い深くその胸に滲みでてきたりした。もう一度、こんな春の宵に逢って見たい男が幾人かあった。幾重はそれを一人づゝ思出して、俘氣つぽい春の香氣を含んだ雨の感覺を、しつとりと味つてゐた。

女中が何か運んで來たと見えて、後の方でかた/\と食器や膳の打《ぶ》つ突かる音がしてゐた。女中が低い聲で男に何か云った。男が、

「いえ。」

とそれに返事をしてゐた。女中が行ってしまふと、

「幾重さん。」

と男が幾重を呼んだ。

幾重は、その男の聲が妙に氣に入らなかった。自分の情趣をさまたげられたやうにいやな感じがして幾重はだまってゐた。ぽつねんと腕組みをして、食卓の前に座ってゐる男の様子などを心に描きながらその前に座らうとする自分の事を考へても興味がなかった。男の前に行くよりは、かうして雨を眺めてゐる方がおもしろかった。

「何うしたの。」

繁雄は立ってきて幾重と並んだ。その言葉の底に哆々《だゞ》つ子らしい怒りを持たせて、繁雄は幾重の顏を覗いたりした。さっき逢った時から、女の素振りが冷たいと思ってゐた。自分が何か一と言云ふと、女は直ぐ小馬鹿にしたやうな皮肉な笑ひを眼に含んで繁雄を見たりした。いつものやうな、わざと愛着を裝つた技巧的な優しみさへなくなって、女は時々切ない溜息を吐いたりした。何も彼もうるさくてたまらないと云ふやうに、肩をさげて、澁面を作った幾重は男の前で外見《よそみ》をしてゐたりした。繁雄には女の心が分からないやうな氣がした。繁雄はそっと自分の手を幾重の肩においた。

「いゝ雨でせう。雨を見てゐるんですよ。いゝ雨ねえ。」

「雨なんかどうでもいゝぢやありませんか。」繁雄はつまらなさうに呟きながら、幾重と同じやうに雨を眺めた。雨はだん/\輕く降って、門の柳が可愛らしい靑い芽をすんなりと靜になびかしてゐた。それが春信《はるのぶ》のかいた若衆姿のやうに、嫋《なよ》やかな風情に幾重の眼に映った。

「あゝいゝ雨。」

幾重は濕つぽくなつた襟元を弄《いぢ》りながら、座へ戻って、女中が火にかけて行った鍋の前に頰杖をついた。しばらく經ってから繁雄もそこに來て坐った。繁雄は下を向いてぢつと目を落としてゐた。

「食べませうか。」

幾重は優しく云って、割箸を口にくはへて片手で割りながら男の顏を見た。男は漸く口をひらいてむつつりと、

「えゝ。」

と云って自分も箸を取った。今日は繁雄の顏の皮膚が黄色を帶びて、眼のふちなどがきたなく見えた。いつもの赤い唇も白く乾いてゐた。幾重は又振返って窓の外を眺めた。雨がやみさうな景色になって、外が少し小暗くなった。離れの座敷の灯が、庭を越した彼方《むかふ》にぼつと白い障子に映ってゐた。幾重の柔らかい白い肉にまつはらうとするやうに、疲れたやうな春の匂いに充ちた濡れた空氣が、彼女の方に微《かすか》に動いてきた。

繁雄はいつものやうに、默ってゐた。女の前にゐても繁雄はなんにも話をすることがなかつた。幾重に手を取られゝば自由に其の手を任せるし、幾重が何か綾《あや》してやれば、それに對して女の愛に媚びようとする笑ひなぞを見せたりするけれども、あとは、感情が消えてしまつたやうに繁雄はいつも默って、その表情を靜にしてゐた。

幾重はその石のやうに堅くなってむつゝりとしてゐる繁雄の顏を、時々ぢつと見つめてゐた。こんな時、幾重の方から心を誘ふやうにしてやるのだけれども、今夜は幾重にはそれが面倒臭かった。

「あなたはいつも默ってゐる人ねえ。」

幾重はおもしろくもなさゝうに斯う云った。

おとなしいと云ふよりは、戀のシーンを解することを知らないこの男の生野暮《きやぼ》な、女馴れない心持が幾重には殊に今夜はつまらなかった。

「ほんたうに味のない人だ。」

幾重は心の中でつく/\゛然う思ひながら、何うかするとあのきれいな眼が、皺んだ瞼になつてひどく醜くなるその男の眼を見てゐた。繁雄はほんとうに何も知らなかった。それでも、幾重が相手にしてゐる時には、繁雄はその愛の中に包まれてゆかうとする心持を、僅ながらその動作の上に現はさうとしてゐるところが見えたりしたけれども、ただ其れだけであった。この媚びの裏に、女の思《おもひ》を苛ら立たせるやうな、男の强い肉の魅力などは、微塵《みぢん》も持ってゐなかった。女の眼の色に相槌を打つやうな官能的な笑ひを投げることなどは、繁雄は夢にも知らなかった。

最初は、女のはげしい愛着にその心を卷き込まれて、見當がつかずにゐるやうな男のあわてた初心さを、幾重は可愛らしく思ったりしたけれども、今では、幾重のしびれきつた戀の情熱を、一層荒々しく反撥させてくれるやうな力をもってゐない繁雄のすべてが、幾重は唯ぢれつたいばかりになった。幾重にあてゝ書く手紙でも、繁雄はその言葉の上に、戀の情緒を沁みださせることを知らなかった。堅い文字で、戀とか、愛とか、なつかしいとか、可愛がってくれとか云ふことを、をかしいほど試驗の答案的に書いてあった。

幾重はその手紙をいやなものゝーとつにしてゐた。概念的にばかりに使はれてゐる戀と云ふやうな字を幾重はいつもよくは讀まないやうにした。熱がないと云ふよりは、味のない手紙ばかり繁雄は書いた。

幾重はいつも、繁雄のことを、綺麗なお木偶さんだと思ったりした。それから床柱見たいな男だとも思った。稀には寄っかゝって好い心持のすることもあるけれども、向合《むかひあ》ってはなんにもならなかつた。抱くにも縺れるにもなんの感情もおこらないほど、繁雄の戀はぶつきらぼうであつた。幾重はこの戀の相手に倦き/\した。さうして此方から、綾してかゝることに幾重は好い加減疲れてしまつた。

 

繁雄はだまつて、自分の持つてゐた本を繰りひろげて見たりした。さうして讀まないで、又閉ぢた。

繁雄は口を結んでゐた。少し赤い眼許が、釣り上がったり、又撓《たわ》んだりしてる筋肉の動きを、幾重は眺めてゐた。女から、何かしかけられることを、ぢつとして待ってゐると云ふやうな様子があった。幾重はわざと、冷めたい顏をして卷煙草を更かしてゐた。

「すつかりあなたが倦きてしまつた。」

今、斯う云はうかと幾重は考へた。

いつものやうに、男が斯う云ふ風を見せた時に幾重がするやうな事をして見たとして、その先きを幾重は想像したりした。

想像してゐるうちに幾重は猶更つまらなくなつた。

「さあ、歸りませうか。」

幾重は然う云って卷煙草を火鉢の中に投げ入れた。

「えゝ。」

繁雄はおとなしむつゝりした返事をしながら、直ぐには立たなかった。女のきび/\した冷めたい様子が繁雄には、初めてのことなので、さつきから何うしていゝか分からなかった。幾重のちつとも優しくない皮肉な眼付が、繁雄には一層繼穂《つぎほ》がなかった。幾重は立って支度をした、これから此處を出てから、又この人と肩を並べて、何も話をする事がないので、たゞだまつてぽつ/\步くーーさうして、とう/\我慢がしきれなくつて、自分はいつものやうに、子供騙《だま》しのやうな甘つたるゐ言葉を、あとから/\と捨鉢に抛《はふ》りだすんだらうと思ふと、幾重はうんざりした。

「雨が降るから直ぐ別れやうぢやありませんか。」

幾重は然う云ひながら先きに立って室を出た。繁雄に別れたら、京子のところへ行って見やうと思った。

京子とーー思ったはづみに、幾重の胸に放埓な戀が燃えるやうにきざした。あの可愛らしい娘ごころを今夜一と晩で何うにかしてやりたいと思った。赤い色彩で埋ってゐる京子を、幾重はどうしても今夜氣儘にして見たかった。牡丹の花の崩れるやうに、自分の抱かうとする手に崩れてきさうな京子の風情などを描いて幾重は自分の肉が震へるやうな氣がした。

京子はいつも繪をかいてゐた。あんまり美しいので幾重が見初めた娘であつた。

幾重はふしぎな樂しみにそゝられながら、鳥料理の門の灯などをなつかしく眺めたりした。雨はやんでゐた。幾重は傘をさげて男より少し先に步いた。

「ね、別れませう。」

幾重が繁雄と並んだ時に、幾重は足をとめて、斯う云ったけれども繁雄は、何か思ひ探るやうな眼を暗い路に向けて、それに直ぐとは返事をしなかつた。

路は駒下駄で步いても行けさうに見えた。明りが所々にありながら路が薄暗かった。車宿の前に、車が往來の方に向っ《むかつ》て並んでゐた。幾重はその狹くなつた通りを行く時に、だまってゐる男の手をマントの上から押へた。

繁雄は手を出して、手袋をはめてゐる幾重の手をとつた。さうして、不器用な調子で、

「私がいやになつたんでせう。」と云った。

「なぜそんな事を聞くんです。」

いやになつたと云ったその言葉が、幾重の耳に不快に聞えた。

「いやになれば何うするの。」

幾重は意地惡く男に迫るやうに、腕を男にこすりつけながら云って笑った。雨上りの生あたゝかい風が、幾重の頰にさわつた。

「どうもしない。ーー」

繁雄は低い聲でそれだけ云って、だまつた。

「いやになんぞなりませんよ。私はあなたが好きですもの。」

斯う云ひかけて、自分はまた、それ/\何時ものやうに云はなくてもいゝことを、云ひ出すんだらうと幾重は思った。繁雄が、時々笑ひながら、

「口から出任せを云って。」と云ふやうに、幾重はぞんざいに、色氣の多い言葉を繁雄に向つて出し/\した。

それは、いくらでも、どんな事でも繁雄になら云ふことができた。

「私を思ってゐた?私の事ばかり思ってゐた?」

「別れてゐる間でも、あなたは私の事を思ってゐるんですよ。寝ないで、寝ないで、私の事を思ひつゞけていらつしやいよ。忘れちやいけない。」

「ほんとにあなたは可愛いゝ人ねえ。可愛いゝ、可愛いゝ、可愛いゝ繁ちゃんねえ。」

「私はあなたを何うすればいゝんでせう。」

幾重は立てつゞけにこんな事を云ったりした。いつもいつも、お定り文句の甘い言を言ってゐると自分で思ながら、幾重はよく斯う云った。こんな事を繁雄の前で云ってる時は、歌ひ馴れた好きな歌を勝手に口にしてゐるやうで、心持が快《よ》かつた。繁雄はそれを嬉しさうにして聞いてゐた。

幾重の甘ったるい言葉は、どこまでが、ほんとうで、どこまでが、でたらめか、繁雄の若い心では判斷がつかなかったけれども、それでも、それを戀の生命《いのち》を絞ったやうな大切な言葉にして、繁雄は眞劍に自分の心に受け入れてゐた。

「私を思ってゐた?」と幾重に口癖のやうに聞かれる毎に、繁雄は力を入れて、

「えゝ。」と返事した。

けれども何うかすると、繁雄の生野暮《きやぼ》な心持から、女におもちやにされる事を憤《おこ》るやうな風に見えることがあつた。幾重はそれを知ってゐた。さうして、自分のやうな女に對して眞實な愛を要求してゐると思ふと、幾重はをかしかつた。

「私は俘氣ものですよ。」

幾重は嘲弄《からか》ふやうに斯う云ったりした。

「今日あなたの事を思ってゐたつて、今夜は誰れに惚れるか分かりやしない。よござんすか。」

繁雄はそんな事を云はれると、仕方なしに微笑んでゐた。その笑ひの影に賴りなささうな色をひそめてゐた。然う云ふ繁雄の顏付が、ひどく幾重の心に激しい愛慕の波を起すことがあるけれども、又、何うかすると、思ひきり殘忍に苛《いぢ》めてやりたいやうな氣のすることがあつた。

「嘘。そんな事は嘘。私はあなたが好きなんですもの。外に誰れも思やしませんよ。あなたの口許は可愛らしいんですもの。あなたの眼はきれいでせう。こつちをお向きなさい、よく見て上げるから。ーー」

幾重は然う云って繁雄の顏を、兩手に挟んだり、然うかと思ふと、

「今日、ほんとにいゝ人を見た。私はその人が忘れられなくつて困ってしまった。」と云ったぎりで、いつまでも、冷やかに繁雄の顏を見つめてゐたりすることがあった。

二人とも、何も云はずにぶら/\と步いてゐた。灯の賑やかな、電車の通る大通りへ出ると、幾重はそこで別れやうと思った。

「ぢや左様なら。」

繁雄は目眩《めまぐ》るしい、濡れた明りの色にぢつと見入りながら、中々別れやうとしなかつた。

「もう少し步きませう。」

繁雄は然う云ひながら立った儘で動かずにゐた。

 

二人は大通りから暗い小路へはいつた。そこを拔けると、川端へ出た。川向ふの灯が三つばかり、とろんとした光りを投げてゐた。川の水が黑く、靜に流れてゐた。

幾重は水を見ながら步いた。水は直きに河岸に並んだ竹材の置場や材木の置場などに隱れてしまった。片側に黑い塀がつゞいたり、軒の低いしやれた格子の先きに、なまめかしい燈籠の灯がぼんやりと點いてゐたりした。

「二人つきりで、どこかを間借りして暮しませうか。」

幾重はふいとこんな事を云った。ある家の二階に、優しく灯の色が障子の篏め込み硝子に映ってゐるのを見上げた時に、どうしたのか急に幾重の胸に、そんな二人の生活が空想的に樂しいものに思俘べられた。

「さうしてね、私はあなたの顏ばかり見てゐるんです。いゝでせう。なんにもしないで、私はふところ手をして、あなたの顏ばかり見てゐるの。あなたは何うしてゐるでせう。」

繁雄はだまつて笑ってゐた。

「やつぱりなんにも云はないで、だまりこんでゐるでせう。え?だまつてね。」

幾重はつまらなさうに云った。

けれども胸のなかでは、その空想がだん/\に大仰になつていつた。ふところ手をして、男の顏ばかり眺めてゐる自分の姿が、おもしろい姿に、はつきりと描かれたりした。さうして、その相手の男がさつき料理屋の窓で雨を見ながら思出したある中年の男になつてゐた。

思合つただけで、その男とは何もならずに別れてしまつた。男はまだ二十三四のやうに美しかつた。色が白くつて、面長な輪廓に意氣なところがあつて、いつも情事で苦勞してるやうな、女と遊び慣れた俘氣つぽい感覺がその顏にあつた。

幾重はその男の家に遊びに行ったことがあつた。幾重は袷を着てゐた。五月の綠の刺戟强い日光が、その家の廣い庭園のうちにいつぱいに漲ってゐた。幾重はその男に伴《つ》れられて廣い庭の内を步いたりした。さうして庭つゞきの藪の奧の方まで二人は入っていつた。子供を多く持ってゐたその男は、幾重を娘のやうに扱って、後から輕く抱いたりした。竹の根につまづきさうになつたりするのを、男は、

「あぶない。」と云ってその身體を優しく支へて笑ったりした。男の姿は綠の日の影に若く美しく見えた。

幾重はそこで藪蚊にさゝれて、頰のところが赤くふくらんだのを、室に歸ると、男は自分で香水を持ってきて、その螫《さ》された痕へつけてくれた。

「いゝ氣持でせう。」

男は輕く云ひながら、その時幾重の半巾《はんけち》を持ってゐる右の方の手をしつかりと握った。二人はしばらく笑った眼を見交はしながら窓のところに立ってゐた。

男の夫人がいやな顏をするので、幾重はちよい/\其家へ行くこともできなかつた。男は身分があるので、幾重を連れて然う外を出步くこともできなかつた。お互に、何か好い機會《をり》を待たうとするやうな默契《もくけい》を、心の中に秘め合つたまゝで、長い月日が經つていつた。幾重からは男の手許へ手紙を送ることもできなかつた。男からは今でも、思ひついたやうに、時々かすかな思《おもひ》を傳へてよこしたりした。幾重は思切《おもひき》ってはゐながら、その男ばかりは心の奧から消してしまふことのできないほど、戀しい印象があざやかに殘つてゐた。唯、顏を合わせるだけでもいゝから、一と月に一度、二た月に一度でも日を定めて逢って見たいーー幾重は然う思詰めたりすることもあった。けれども、あの男へは、そんな嬰兒染《ねんねえじ》みたことは云つてやれなかつた。思ひ忍ぶと云ふ事に、無限の戀の律《リズム》が波打つてるやうにいつも詩味深く思ひやられるのは、この男との陰のやうな愛情ばかりであった。幾重は、何うかすると、その男への戀が、自分一生の間の本当の戀であつたやうに思ひ返されたりした。

幾重は一人で、樂しい空想に耽りながら、うか/\と步いて行った。川の水が、ふと見えたりすると幾重はそこに立つて、黑い水のおもてをいつまでもぢつと見詰めてゐた。繁雄は煙草をのみながら、幾重と同じやうにそこに立つて水を眺めたりした。

「行きませう。」

繁雄は、あんまり長く幾重が立ち盡くしてゐると、直ぐ斯う云って促した。

 

「ぢや左様なら。」

幾重は暗い橋の角で、繁雄に云った。橋の向ふで、廣告塔のイルミネーションが、赤く靑く、くる/\と云って遠くを通ってゐた。空のまんなかのところに、星が群つて現はれてゐた。

「別れませう。」

然う云つて幾重の出した手を繁雄は取った。幾重は繁雄の顏をぢつと見た。帽子の庇の下から、きれいな眼が輝いてゐた。

「もう少し送って下さいな、ね。どうせ家へ歸るんでせう。」

「くたびれてしまつたから。」

幾重はいやさうに云った。傘が重いと云ふやうに、わざと傘の先きを持つて、振り散らしてゐた。

「ぢや電車へ乗りませう。いつしよに。」

「まあ一人でお歸んなさいな。電車に乗つたつてつまらないぢやありませんか。あなたは默つてゐるんだから。」

繁雄は、幾重の手を搖りながら、何か云はうとして、それで調子好く彈んで出てこないやうな、もだ/\した眼色をした。

「一人で歸るのはいやなのですか。」

繁雄は、うなづいてゐた。

「ぢや、お別れのしるしに。」

幾重は繁雄の手を自分の方へひいて、男の方へ顏を振り仰向けた。

「ね、いゝでせう。左様なら。」

幾重は、繁雄と別れて、橋を渡り返した。

 

一人で步いてくると、幾重は今別れた繁雄のことが、ちょっと身に沁みて、その胸からはなれずにゐた。暗い街の灯が、とぼ/\して少し幾重の心が滅入った。

「京子のところーー」

幾重は然う思ったが、さつきほどの熱がおこらなかつた。幾重の殊に氣に入ったあの眼などを思ひ俘べて見たけれども、それに心が惹かれなかつた。京子に逢ひたいと云ふ興味がなくなつてしまつたので幾重は何うしようかとしばらく道の中途で思ひ惑いながら、寂しい思ひをして步いた。

行く道に、踊りの師匠の家があつた。舞臺を踏んでる可愛ゝ足音が、二三人かたまつて喧《やか》しくどた/\してゐた。その音が往來の方に響いてきた。三味線の低い調子がそれに交つてゐた。

幾重はそこから折れて、的《あて》もなしに長い間足に任せて步いてゐた。どつちへ行けば電車の道に出るか分からずに步いてゐるうちに、待合などの軒並みに並んでる綺麗な町へ出た。大きい門の中に植ゑ込みが奧深く見えて、金行燈《かなあんどう》の灯が美しく濡れてゐたりした。どの家も明るく、なまめいた灯が流れてゐた。幌を下げた車がー臺彼方向きにおいてあつた家の門も過ぎたりした。細い路次から、半玉が二人巫山戯《ふぎけ》ながら出てきた。友禪の上に一人は長い羽織を引っかけてゐた。腰高に端折《はしよ》つた赤い褄先きから、塗り下駄を穿いてゐる眞つ白な足袋の恰好が、くつきりと出てゐた。褄と、足袋の甲との間が、毛筋ほどの差で、あざやかに線をきつてゐた。

幾重はその姿を見送りなどして、又、右へ曲り/\した。小さい橋に出た。橋の下に船の蓋をとつたやうな切り窓から、その灯がゆるく漏れてゐた。

幾重はいつともなく、さつき繁雄に別れたところへ出てきた。電車が遠くの方に動いてゐた。幾重は電車の方へ步いて行った。

 

幾重は山の手のある坂を上つて行った。そこいらの邸内や、道の傍に、大きい櫻がちよい/\あつた。櫻は、薄つすりとこまやかに咲いてゐた。空がだん/\に晴れてきた。

小さい溝に、板の橋を渡した兎《と》ある門構への前までくると、幾重は、松の枝に遮られたその家の二階を見上げて立止つた。夜など來ると、よくその二階から琴の音が聞えたのだが、今夜はひつそ隈どつた明りの色がずつと並んだ障子に華々しく射してゐた。

幾重は京子がゐるか、ゐないか、と思ひながら、門のなかに入って行った。鈴《べる》を押しても押しても、いつまでも誰れも出てこなかつた。

幾重は自分で格子をがら/\と開けて、土間に這入った。そこへ、いつもの婆あやが出てきて、

「おやまあ。」と云ひながら、愛想のいゝ顏をした。

「いらつしやるんですか。」

「へえ。」

婆あやは然う云って、膝を突いてゐた。

幾重は上へあがって暗い玄關で、上に着てゐるものを脫《と》つたりした。幾重が來れば、誰れも幾重を京子の部屋へはわざ/\案内しなかつた。幾重は構はずに、そこから廊下をぬけて、奧まつた京子の部屋へそつと步いて行った。

突き當りの丸窓が、薄暗くつて、室内《なか》には誰れもゐないやうに靜であつた。京子はもう寐《やす》んだのかしらなどゝ思ひながら、右に廻ってその入り口の障子を開けて見ると、京子はそこにはゐなかつた。誰れか人が來てゐたやうに、京子の机の横に、客の座蒲團が亂れてゐた。

今にこの部屋へ京子は戻ってくるのだらうと思って、幾重はそこに坐ってゐた。人形やおもちやが整然《きちん》と並んでゐる置棚の前に、小米櫻《こゞめざくら》が挿してあつた。床の間の上に、繪絹を貼った尺五の枠が二三枚立てかけてあつた。

京子のいつも敷いてる友禪の座蒲團の色彩が、こつくりと幾重の眼に映ったので、幾重はやがてその上に行って坐った。繪筆や、畫帖の亂雜に散らかってゐる机の上に、たつたーとつ位置を異《ちが》へてその角のところに置き放しになつてるやうな形で、載つかつてある小形の本があつた。きれいな藤原時代に見るやうな姫が扇で顏をかくしてゐる繪がその表紙にかいてあつた。十二一重《ひとへ》の裾と、下げた髪とが亂れて、赤い色が毒々しく見えた。その上のところに何か洋文字が達者な筆でかいてあつた。

「The irresistible Argument」

幾重はその字を讀みながら、そつと頁を開けて見た。

次ぎ/\と美しい繪が刷つてあつた。「敵しがたき論證」の繪が、白く、赤く、黑く、强烈な色彩が縺れ/\して、描かれてゐた。

帶が解けて流れてゐたりした。女の肉の露な手が空にのびて、何かに絡まってゐたりした。櫻の枝の背景や、燈籠に飛石の庭の圖があつたりした。掛け臺の蔭で、長い袖の中に顏を埋めてゐる美しい娘の、振り下げの鹿の子の帶が男の手の中に亂れてもつれてゐたりした。

幾重は、一枚づつおもしろさうに繰って眺めた。十四五葉で、その繪はおしまひになつてゐた。

見てしまふと、幾重はその本を舊《もと》の通りにして、再び表紙の姫の繪を見返した。さうして、洋文字を又口の中で讀んだ。

「敵しがたき論證。」

幾重はそれを繰り返した。

然し、直ぐに、誰れがこれを持って來たのだらうと思った。さうして、この机の上に乗つてゐるからには、京子はこれを見てゐたに違ひないと思った。

「京子がこれを見た。」

幾重はふしぎな興味にそゝられて、しがらくぢつと、何か心に描いてゐた。

どこからともかく、ふだん京子のきものから匂ってくる香水の匂ひが、あたりを籠めてゐて、それが幾重の鼻にしみた。長い袂や、厚い裾を通して、幾重は京子の肌なぞを空想しながら、又、ばら/\と本の頁を繰った。人間の呼吸がそこから響くやうに思った。

 

そこへ婆あやが茶を運んできた。京子がゐないと聞いて、

「ぢや、お二階で御座いますよ。いらしつて御覽なさいまし。」と云った。

今夜は誰れも家にゐなくて、嬢さんと婆あやばかり留守してゐるところへ、いつも來る原さんと云ふ男のお友達がいらしつた。

「その方とお二階にいらつしやるでせう。」と婆あやは云った。

「お知らせしませうか。」

婆あやは立ち際に斯う云ったけれども、幾重は自分で二階へ行くと云ったので、婆あやは又室を退《さが》つていつた。

これを書いたのは、その原さんだらうと思ひながら幾重は部屋を出て、廊下から二階へあがつていつた。唐紙がぴちんと閉まって、上り口が暗かった。

室内《なか》からその時、低い京子の聲がした。幾重はだまつて、その聲のした方の唐紙をあけて、室にはいらうとした。びつくりして振向いたのは、座敷の隅にうづくまつてゐた京子であつた。原は其の後に手を下げて立つてゐた。

原は眞つ赤な顏をして、立端《たちば》のないやうに、もだ/\してゐたが、京子は直ぐに立つて、膝前などを直しながら幾重の方に向いてよろ/\と步いてきた。おしろいのついた顏が眞つ蒼で、眼ばかり赤くなつてゐた。大きく卷いてる束髪の髷がくづれて前髪から額に輪のやうにかぶさつてゐた。

幾重はなんと云ふ美しい顏だらうと思った。身體ぢうの血を失ってしまつたやうに、京子は眞つ白になつた手を上げて、髪を撫で上げてゐた。脆い花片《はなびら》のやうに、白々と、消えさうになつてゐるその顏のなかに、睫の長いくるりとした可愛いゝ眼が銳く光ってゐた。

「いついらしつて。」

京子は靜に斯う云ったけれども、息が彈んでゐた。幾重は原と云ふ男を見た。原は、座敷のなかに何もないので行き場がなかった。それで障子をあけて廊下の外に出ていつた。髪の長い、眼鏡をかけた、口許に愛嬌のあつた顏が、幾重の眼に殘つた。

「原さん、いらつしやいな。」

京子は然う云っておいて、幾重の袖に手をかけた。

「階下《した》へ行きませう。」

京子は一生懸命な顏をして、幾重に笑って見せた。笑ってゐるうちに、その顏に生きた血が動いてきて、ふつくりした筋肉が柔らかに撓《たわ》んだ。匂ひと、柔らかさと、なよ/\しさとで、京子の小さい身體が、ちょっと觸っても赤い色彩のなかに崩れてしまひさうに見えた。眼が情慾の詩のやうに燃えてゐた。

「美しい顏ね。なんて美しい顏をしてゐるんでせう。」

幾重は京子の顏から眼をはなさなかつた。京子はあわてゝその顏を袂でかくしながら急に階下へおりていつた。幾重は立つた儘で、今、京子のうづくまつてゐた座敷の隅を見た。電氣が疊を平に照らしてゐた。その隅にはなんの影も落ちてゐなかつた。原はいつまで經つても廊下の外から這入ってこなかつた。

 

幾重も階下へおりてきた。京子の部屋へは行かずに、緣から硝子窓越しに暗い庭を眺めて立つてゐた。外はくらくつて、なんにも見えなかつた。こゝにも丁子の匂ひがしてゐた。冷めたく、すつきりと幾重の胸を淸めるやうに、靜に闇の外から匂ってきた。少時《しばらく》して二階から原の下りてくるやうな氣勢《けはひ》がしたので

幾重は入ると直ぐ、机の角のところに眼を送った。本は其の儘になつてゐた。京子は机の上に突つ伏してゐた。肩上げのある荒い絣の羽織の襟が肩から少し落ちてゐた。おしろいのついた頸筋が、後れ毛でぼや/\と埋ってゐた。髪がすつかりくづれて右の耳前髪《もみあげ》の方に落ちかゝつてゐた。

「京子さん。」

幾重が呼んで見ると、京子は直ぐに顏を上げて此方を向いた。その口が子供らしく笑ってゐた。

「氣分でも惡いんですか。」

「いゝえ。」

京子は頭を振って、さうして、机の角の本の表紙をぢつと見守ってゐた。

「お客様がお歸りになりますが、宜しうがざんすか。」

婆あやが障子の外から聲をかけた。

「えゝ。」

意外にはつきりとした大きな聲で返事した京子は、ふと氣が付いたやうに、その本を取って急いで部屋を出て行ったが、直きに歸ってきた。

「The irresistible Argument」

幾重は京子の顏を見ると、かう云って笑った。さうして京子の手を取って、自分の膝の前に引き据ゑた。仆《たふ》れるやうに凭《もた》れかゝつた京子の身體を、幾重は力いっぱいに抱きしめて、その崩れた髪の毛に頰を押し付けた。

「ふるへてるぢやありませんか。」

京子の身體が微に震へてゐた。京子は小さい口を結んで、魂の拔けてしまったやうな眼で自分の膝の上を見詰めてゐた。

「ね、何うしたんです。」

幾重は後ろから、京子の腕をとつて其の身體をゆすぶつた。膝の上に乗せた子供をいとしむやうに、京子の頰に、幾重は頰を寄せた。さうして、こわれかけてゐる髪のピンを一本づゝ拔いてやつた。入れ毛が、幾重の胸の前にずるりと落ちた。幾重はすつかり、その髪をほぐして撫でてやつた。長い髪がうねつて京子の脊中に波を打ちながら垂れた。幾重は、ぢつとしてゐる京子の胸苦しいやうな呼吸を靜に聞いてゐた。さうして、斯うして京子を抱いてゐる自分が、まるで愛の絕頂にあるやうな氣がした。

幾重はどんなにでも京子を可愛がらうと思って身が燃えた。さうして、その irresistance な恐ろしい力に引きずられて、その迷蒙な慾のなかに醉ひしれてゆくものゝ狀態を、ひそかに見守ることのできる畸形な快楽を、幾重はうつとりと夢みてゐた。

京子は幾重を送って外に出た。送ってこなくてもいゝと云って断っても、京子は聞かずに出てきた。髪を下げた上から、漆黑の艶をもつた長いびらうどの襟卷をしてゐた。このびらうどの中から、京子の白い可愛らしい腮《あご》が括《くゝ》れるやうに現はれてゐた。

夜の更けた外が、暗く暖にひつそりしてゐた。柵に添った柳が柔らかに色をかくしてゐた。美しい肉にかくれたある祕密の聲が、この暗い夜のおもてにいつぱいに擴がつてゐるやうに思はれた。

「もう遅いからお歸りなさい。」

「えゝ。いゝわ。」

京子はやつぱり隨《つ》いてきた。夜風の身に沁《しみ》るのが快い心持さうに京子は美しい眼を闇にさらしてゐた。その子供のやうな小《ちひさ》い頰に、蒼い衰弱の陰を微かに漂はしてゐる魅力に幾重は惱《なやま》されながら步いた。

「美しい美しい、ほんとに美しい。」

幾重はふと立止っては、しばらく京子を見詰めてから斯う云った。さうして、幾度も、幾度もその頰に唇をよせた。

「ぢやお歸りなさい。もうこゝまでゞよう御座んすから。」

京子は幾重の顏を見ないで下を向いて然う云った。

「ごらんなさい。こんなに暗いんだから。」

幾重がそこいらを見廻したので、京子も顏を上げてあたりを見た。

「電車が通らないわ。」

京子は坂の下を遙に見て云った。そこに燈火《ともしび》があつた。闇にとざゝれた樹の陰影を受けて、赤い電燈のいろが夢におそはれてるやうな暗い隈のなかに輝いてゐた。

 

女性文学者の同性愛についての文献

レズビアン事例研究のための収集です

 

 


 

湯浅芳子 

 

 

 

田村俊子

 

に収録された『春の晩』は、沢部の説により湯浅に愛読されたと。

 

評論 

 

「畸形」を仮装する 田村俊子「春の晩」における女性同性愛表象 [pdf]

 

 

吉屋信子

 

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