青い三角形部屋

「この異端者よ!」

田村俊子「春の晩」 入力

底本:『田村俊子作品集・2』

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青空文庫田村俊子さんの作品のほとんどが10年以上校正待ち状態になってたので、青空に入力しても、校正される可能性が低い。また入力できない旧字体の扱いはしたくないので、ここで入力することに決めた。

旧字体が不完全で、校正もないため過ちがあるかもしれないので、引用などは慎重にしてください。

 

 

幾重《いくへ》はふと雨の音に心付いて窓の方を見た。窓が開けはなしてあつた。いつの間にか强くなつた雨の餘沫《しぶき》が窓の敷居を濡らしてゐた。そこから見える夕方の雨の空に白絹のやうな光りがあつて、ぽち/\と雨の雫が水晶の點々を並べてゐる楓の枝の薄紅い芽の色に、その空の光りを映ろはせてゐた。垣根の傍の椿の花もあざやかに群つてゐる綠の葉の中からピンクの色を俘かしてゐた。幾重は立つて行って窓から外を覗いた。

樹が雨に打たれながら、明るくぼやっとしてゐた。斜《はす》かいに見える軒燈の灯が艶消《つやけ》しがらすの球の中にほっかりと滲染《にじ》んで、頰紅のやうな和らかい春の宵の色を包んでゐた。雨にむせてる丁子の匂ひが甘くなまめいて窓のほとりを流れてゐた。

幾重はしばらく立った儘で、灯も花も綠も、蕩《とろ》かすやうにさっと霞《かす》めて降ってゐる雨を見つめてゐた。しづかな、しっとりと强い雨の響きのなかに、何か女の胸を甘やかすやうに咡《さゝや》く祕密なものが含まれてゐた。幾重はその咡きにそゝられながら、うつとりとした。

「なんて、いゝ雨だらう。」

幾重はしみ/\゛と然う思《おもひ》ながら、いつまでも、雨の降るのを見てゐた。少し顏を上げて、家根より高いところから降る雨を眺めたりした。空の光りが優しくなだらかに雨のなかに溶けてゐた。幾重の昔の戀の思出をどこかに隱して、春の雨は限りない情緒を織り込みながら生ぬるく幾重の白い額にしぶいた。幾重の前髪が、霧のやうなこまかい雫にはら/\と濡れた。

「なんて、いゝ雨だらう。」

幾重は然う思っては雨を見た。雨はさあと快よい音を立てゝは、また忍び音《ね》に軽く降った。幾重の心に、十何年も前の初戀人の若い姿がふと色めいて懐かしく俘んだりした。思ひ合つたばかりで何うともならずに別れてしまったある男の面影が、愁い深くその胸に滲みでてきたりした。もう一度、こんな春の宵に逢って見たい男が幾人かあった。幾重はそれを一人づゝ思出して、俘氣つぽい春の香氣を含んだ雨の感覺を、しつとりと味つてゐた。

女中が何か運んで來たと見えて、後の方でかた/\と食器や膳の打《ぶ》つ突かる音がしてゐた。女中が低い聲で男に何か云った。男が、

「いえ。」

とそれに返事をしてゐた。女中が行ってしまふと、

「幾重さん。」

と男が幾重を呼んだ。

幾重は、その男の聲が妙に氣に入らなかった。自分の情趣をさまたげられたやうにいやな感じがして幾重はだまってゐた。ぽつねんと腕組みをして、食卓の前に座ってゐる男の様子などを心に描きながらその前に座らうとする自分の事を考へても興味がなかった。男の前に行くよりは、かうして雨を眺めてゐる方がおもしろかった。

「何うしたの。」

繁雄は立ってきて幾重と並んだ。その言葉の底に哆々《だゞ》つ子らしい怒りを持たせて、繁雄は幾重の顏を覗いたりした。さっき逢った時から、女の素振りが冷たいと思ってゐた。自分が何か一と言云ふと、女は直ぐ小馬鹿にしたやうな皮肉な笑ひを眼に含んで繁雄を見たりした。いつものやうな、わざと愛着を裝つた技巧的な優しみさへなくなって、女は時々切ない溜息を吐いたりした。何も彼もうるさくてたまらないと云ふやうに、肩をさげて、澁面を作った幾重は男の前で外見《よそみ》をしてゐたりした。繁雄には女の心が分からないやうな氣がした。繁雄はそっと自分の手を幾重の肩においた。

「いゝ雨でせう。雨を見てゐるんですよ。いゝ雨ねえ。」

「雨なんかどうでもいゝぢやありませんか。」繁雄はつまらなさうに呟きながら、幾重と同じやうに雨を眺めた。雨はだん/\輕く降って、門の柳が可愛らしい靑い芽をすんなりと靜になびかしてゐた。それが春信《はるのぶ》のかいた若衆姿のやうに、嫋《なよ》やかな風情に幾重の眼に映った。

「あゝいゝ雨。」

幾重は濕つぽくなつた襟元を弄《いぢ》りながら、座へ戻って、女中が火にかけて行った鍋の前に頰杖をついた。しばらく經ってから繁雄もそこに來て坐った。繁雄は下を向いてぢつと目を落としてゐた。

「食べませうか。」

幾重は優しく云って、割箸を口にくはへて片手で割りながら男の顏を見た。男は漸く口をひらいてむつつりと、

「えゝ。」

と云って自分も箸を取った。今日は繁雄の顏の皮膚が黄色を帶びて、眼のふちなどがきたなく見えた。いつもの赤い唇も白く乾いてゐた。幾重は又振返って窓の外を眺めた。雨がやみさうな景色になって、外が少し小暗くなった。離れの座敷の灯が、庭を越した彼方《むかふ》にぼつと白い障子に映ってゐた。幾重の柔らかい白い肉にまつはらうとするやうに、疲れたやうな春の匂いに充ちた濡れた空氣が、彼女の方に微《かすか》に動いてきた。

繁雄はいつものやうに、默ってゐた。女の前にゐても繁雄はなんにも話をすることがなかつた。幾重に手を取られゝば自由に其の手を任せるし、幾重が何か綾《あや》してやれば、それに對して女の愛に媚びようとする笑ひなぞを見せたりするけれども、あとは、感情が消えてしまつたやうに繁雄はいつも默って、その表情を靜にしてゐた。

幾重はその石のやうに堅くなってむつゝりとしてゐる繁雄の顏を、時々ぢつと見つめてゐた。こんな時、幾重の方から心を誘ふやうにしてやるのだけれども、今夜は幾重にはそれが面倒臭かった。

「あなたはいつも默ってゐる人ねえ。」

幾重はおもしろくもなさゝうに斯う云った。

おとなしいと云ふよりは、戀のシーンを解することを知らないこの男の生野暮《きやぼ》な、女馴れない心持が幾重には殊に今夜はつまらなかった。

「ほんたうに味のない人だ。」

幾重は心の中でつく/\゛然う思ひながら、何うかするとあのきれいな眼が、皺んだ瞼になつてひどく醜くなるその男の眼を見てゐた。繁雄はほんとうに何も知らなかった。それでも、幾重が相手にしてゐる時には、繁雄はその愛の中に包まれてゆかうとする心持を、僅ながらその動作の上に現はさうとしてゐるところが見えたりしたけれども、ただ其れだけであった。この媚びの裏に、女の思《おもひ》を苛ら立たせるやうな、男の强い肉の魅力などは、微塵《みぢん》も持ってゐなかった。女の眼の色に相槌を打つやうな官能的な笑ひを投げることなどは、繁雄は夢にも知らなかった。

最初は、女のはげしい愛着にその心を卷き込まれて、見當がつかずにゐるやうな男のあわてた初心さを、幾重は可愛らしく思ったりしたけれども、今では、幾重のしびれきつた戀の情熱を、一層荒々しく反撥させてくれるやうな力をもってゐない繁雄のすべてが、幾重は唯ぢれつたいばかりになった。幾重にあてゝ書く手紙でも、繁雄はその言葉の上に、戀の情緒を沁みださせることを知らなかった。堅い文字で、戀とか、愛とか、なつかしいとか、可愛がってくれとか云ふことを、をかしいほど試驗の答案的に書いてあった。

幾重はその手紙をいやなものゝーとつにしてゐた。概念的にばかりに使はれてゐる戀と云ふやうな字を幾重はいつもよくは讀まないやうにした。熱がないと云ふよりは、味のない手紙ばかり繁雄は書いた。

幾重はいつも、繁雄のことを、綺麗なお木偶さんだと思ったりした。それから床柱見たいな男だとも思った。稀には寄っかゝって好い心持のすることもあるけれども、向合《むかひあ》ってはなんにもならなかつた。抱くにも縺れるにもなんの感情もおこらないほど、繁雄の戀はぶつきらぼうであつた。幾重はこの戀の相手に倦き/\した。さうして此方から、綾してかゝることに幾重は好い加減疲れてしまつた。

 

繁雄はだまつて、自分の持つてゐた本を繰りひろげて見たりした。さうして讀まないで、又閉ぢた。

繁雄は口を結んでゐた。少し赤い眼許が、釣り上がったり、又撓《たわ》んだりしてる筋肉の動きを、幾重は眺めてゐた。女から、何かしかけられることを、ぢつとして待ってゐると云ふやうな様子があった。幾重はわざと、冷めたい顏をして卷煙草を更かしてゐた。

「すつかりあなたが倦きてしまつた。」

今、斯う云はうかと幾重は考へた。

いつものやうに、男が斯う云ふ風を見せた時に幾重がするやうな事をして見たとして、その先きを幾重は想像したりした。

想像してゐるうちに幾重は猶更つまらなくなつた。

「さあ、歸りませうか。」

幾重は然う云って卷煙草を火鉢の中に投げ入れた。

「えゝ。」

繁雄はおとなしむつゝりした返事をしながら、直ぐには立たなかった。女のきび/\した冷めたい様子が繁雄には、初めてのことなので、さつきから何うしていゝか分からなかった。幾重のちつとも優しくない皮肉な眼付が、繁雄には一層繼穂《つぎほ》がなかった。幾重は立って支度をした、これから此處を出てから、又この人と肩を並べて、何も話をする事がないので、たゞだまつてぽつ/\步くーーさうして、とう/\我慢がしきれなくつて、自分はいつものやうに、子供騙《だま》しのやうな甘つたるゐ言葉を、あとから/\と捨鉢に抛《はふ》りだすんだらうと思ふと、幾重はうんざりした。

「雨が降るから直ぐ別れやうぢやありませんか。」

幾重は然う云ひながら先きに立って室を出た。繁雄に別れたら、京子のところへ行って見やうと思った。

京子とーー思ったはづみに、幾重の胸に放埓な戀が燃えるやうにきざした。あの可愛らしい娘ごころを今夜一と晩で何うにかしてやりたいと思った。赤い色彩で埋ってゐる京子を、幾重はどうしても今夜氣儘にして見たかった。牡丹の花の崩れるやうに、自分の抱かうとする手に崩れてきさうな京子の風情などを描いて幾重は自分の肉が震へるやうな氣がした。

京子はいつも繪をかいてゐた。あんまり美しいので幾重が見初めた娘であつた。

幾重はふしぎな樂しみにそゝられながら、鳥料理の門の灯などをなつかしく眺めたりした。雨はやんでゐた。幾重は傘をさげて男より少し先に步いた。

「ね、別れませう。」

幾重が繁雄と並んだ時に、幾重は足をとめて、斯う云ったけれども繁雄は、何か思ひ探るやうな眼を暗い路に向けて、それに直ぐとは返事をしなかつた。

路は駒下駄で步いても行けさうに見えた。明りが所々にありながら路が薄暗かった。車宿の前に、車が往來の方に向っ《むかつ》て並んでゐた。幾重はその狹くなつた通りを行く時に、だまってゐる男の手をマントの上から押へた。

繁雄は手を出して、手袋をはめてゐる幾重の手をとつた。さうして、不器用な調子で、

「私がいやになつたんでせう。」と云った。

「なぜそんな事を聞くんです。」

いやになつたと云ったその言葉が、幾重の耳に不快に聞えた。

「いやになれば何うするの。」

幾重は意地惡く男に迫るやうに、腕を男にこすりつけながら云って笑った。雨上りの生あたゝかい風が、幾重の頰にさわつた。

「どうもしない。ーー」

繁雄は低い聲でそれだけ云って、だまつた。

「いやになんぞなりませんよ。私はあなたが好きですもの。」

斯う云ひかけて、自分はまた、それ/\何時ものやうに云はなくてもいゝことを、云ひ出すんだらうと幾重は思った。繁雄が、時々笑ひながら、

「口から出任せを云って。」と云ふやうに、幾重はぞんざいに、色氣の多い言葉を繁雄に向つて出し/\した。

それは、いくらでも、どんな事でも繁雄になら云ふことができた。

「私を思ってゐた?私の事ばかり思ってゐた?」

「別れてゐる間でも、あなたは私の事を思ってゐるんですよ。寝ないで、寝ないで、私の事を思ひつゞけていらつしやいよ。忘れちやいけない。」

「ほんとにあなたは可愛いゝ人ねえ。可愛いゝ、可愛いゝ、可愛いゝ繁ちゃんねえ。」

「私はあなたを何うすればいゝんでせう。」

幾重は立てつゞけにこんな事を云ったりした。いつもいつも、お定り文句の甘い言を言ってゐると自分で思ながら、幾重はよく斯う云った。こんな事を繁雄の前で云ってる時は、歌ひ馴れた好きな歌を勝手に口にしてゐるやうで、心持が快《よ》かつた。繁雄はそれを嬉しさうにして聞いてゐた。

幾重の甘ったるい言葉は、どこまでが、ほんとうで、どこまでが、でたらめか、繁雄の若い心では判斷がつかなかったけれども、それでも、それを戀の生命《いのち》を絞ったやうな大切な言葉にして、繁雄は眞劍に自分の心に受け入れてゐた。

「私を思ってゐた?」と幾重に口癖のやうに聞かれる毎に、繁雄は力を入れて、

「えゝ。」と返事した。

けれども何うかすると、繁雄の生野暮《きやぼ》な心持から、女におもちやにされる事を憤《おこ》るやうな風に見えることがあつた。幾重はそれを知ってゐた。さうして、自分のやうな女に對して眞實な愛を要求してゐると思ふと、幾重はをかしかつた。

「私は俘氣ものですよ。」

幾重は嘲弄《からか》ふやうに斯う云ったりした。

「今日あなたの事を思ってゐたつて、今夜は誰れに惚れるか分かりやしない。よござんすか。」

繁雄はそんな事を云はれると、仕方なしに微笑んでゐた。その笑ひの影に賴りなささうな色をひそめてゐた。然う云ふ繁雄の顏付が、ひどく幾重の心に激しい愛慕の波を起すことがあるけれども、又、何うかすると、思ひきり殘忍に苛《いぢ》めてやりたいやうな氣のすることがあつた。

「嘘。そんな事は嘘。私はあなたが好きなんですもの。外に誰れも思やしませんよ。あなたの口許は可愛らしいんですもの。あなたの眼はきれいでせう。こつちをお向きなさい、よく見て上げるから。ーー」

幾重は然う云って繁雄の顏を、兩手に挟んだり、然うかと思ふと、

「今日、ほんとにいゝ人を見た。私はその人が忘れられなくつて困ってしまった。」と云ったぎりで、いつまでも、冷やかに繁雄の顏を見つめてゐたりすることがあった。

二人とも、何も云はずにぶら/\と步いてゐた。灯の賑やかな、電車の通る大通りへ出ると、幾重はそこで別れやうと思った。

「ぢや左様なら。」

繁雄は目眩《めまぐ》るしい、濡れた明りの色にぢつと見入りながら、中々別れやうとしなかつた。

「もう少し步きませう。」

繁雄は然う云ひながら立った儘で動かずにゐた。

 

二人は大通りから暗い小路へはいつた。そこを拔けると、川端へ出た。川向ふの灯が三つばかり、とろんとした光りを投げてゐた。川の水が黑く、靜に流れてゐた。

幾重は水を見ながら步いた。水は直きに河岸に並んだ竹材の置場や材木の置場などに隱れてしまった。片側に黑い塀がつゞいたり、軒の低いしやれた格子の先きに、なまめかしい燈籠の灯がぼんやりと點いてゐたりした。

「二人つきりで、どこかを間借りして暮しませうか。」

幾重はふいとこんな事を云った。ある家の二階に、優しく灯の色が障子の篏め込み硝子に映ってゐるのを見上げた時に、どうしたのか急に幾重の胸に、そんな二人の生活が空想的に樂しいものに思俘べられた。

「さうしてね、私はあなたの顏ばかり見てゐるんです。いゝでせう。なんにもしないで、私はふところ手をして、あなたの顏ばかり見てゐるの。あなたは何うしてゐるでせう。」

繁雄はだまつて笑ってゐた。

「やつぱりなんにも云はないで、だまりこんでゐるでせう。え?だまつてね。」

幾重はつまらなさうに云った。

けれども胸のなかでは、その空想がだん/\に大仰になつていつた。ふところ手をして、男の顏ばかり眺めてゐる自分の姿が、おもしろい姿に、はつきりと描かれたりした。さうして、その相手の男がさつき料理屋の窓で雨を見ながら思出したある中年の男になつてゐた。

思合つただけで、その男とは何もならずに別れてしまつた。男はまだ二十三四のやうに美しかつた。色が白くつて、面長な輪廓に意氣なところがあつて、いつも情事で苦勞してるやうな、女と遊び慣れた俘氣つぽい感覺がその顏にあつた。

幾重はその男の家に遊びに行ったことがあつた。幾重は袷を着てゐた。五月の綠の刺戟强い日光が、その家の廣い庭園のうちにいつぱいに漲ってゐた。幾重はその男に伴《つ》れられて廣い庭の内を步いたりした。さうして庭つゞきの藪の奧の方まで二人は入っていつた。子供を多く持ってゐたその男は、幾重を娘のやうに扱って、後から輕く抱いたりした。竹の根につまづきさうになつたりするのを、男は、

「あぶない。」と云ってその身體を優しく支へて笑ったりした。男の姿は綠の日の影に若く美しく見えた。

幾重はそこで藪蚊にさゝれて、頰のところが赤くふくらんだのを、室に歸ると、男は自分で香水を持ってきて、その螫《さ》された痕へつけてくれた。

「いゝ氣持でせう。」

男は輕く云ひながら、その時幾重の半巾《はんけち》を持ってゐる右の方の手をしつかりと握った。二人はしばらく笑った眼を見交はしながら窓のところに立ってゐた。

男の夫人がいやな顏をするので、幾重はちよい/\其家へ行くこともできなかつた。男は身分があるので、幾重を連れて然う外を出步くこともできなかつた。お互に、何か好い機會《をり》を待たうとするやうな默契《もくけい》を、心の中に秘め合つたまゝで、長い月日が經つていつた。幾重からは男の手許へ手紙を送ることもできなかつた。男からは今でも、思ひついたやうに、時々かすかな思《おもひ》を傳へてよこしたりした。幾重は思切《おもひき》ってはゐながら、その男ばかりは心の奧から消してしまふことのできないほど、戀しい印象があざやかに殘つてゐた。唯、顏を合わせるだけでもいゝから、一と月に一度、二た月に一度でも日を定めて逢って見たいーー幾重は然う思詰めたりすることもあった。けれども、あの男へは、そんな嬰兒染《ねんねえじ》みたことは云つてやれなかつた。思ひ忍ぶと云ふ事に、無限の戀の律《リズム》が波打つてるやうにいつも詩味深く思ひやられるのは、この男との陰のやうな愛情ばかりであった。幾重は、何うかすると、その男への戀が、自分一生の間の本当の戀であつたやうに思ひ返されたりした。

幾重は一人で、樂しい空想に耽りながら、うか/\と步いて行った。川の水が、ふと見えたりすると幾重はそこに立つて、黑い水のおもてをいつまでもぢつと見詰めてゐた。繁雄は煙草をのみながら、幾重と同じやうにそこに立つて水を眺めたりした。

「行きませう。」

繁雄は、あんまり長く幾重が立ち盡くしてゐると、直ぐ斯う云って促した。

 

「ぢや左様なら。」

幾重は暗い橋の角で、繁雄に云った。橋の向ふで、廣告塔のイルミネーションが、赤く靑く、くる/\と云って遠くを通ってゐた。空のまんなかのところに、星が群つて現はれてゐた。

「別れませう。」

然う云つて幾重の出した手を繁雄は取った。幾重は繁雄の顏をぢつと見た。帽子の庇の下から、きれいな眼が輝いてゐた。

「もう少し送って下さいな、ね。どうせ家へ歸るんでせう。」

「くたびれてしまつたから。」

幾重はいやさうに云った。傘が重いと云ふやうに、わざと傘の先きを持つて、振り散らしてゐた。

「ぢや電車へ乗りませう。いつしよに。」

「まあ一人でお歸んなさいな。電車に乗つたつてつまらないぢやありませんか。あなたは默つてゐるんだから。」

繁雄は、幾重の手を搖りながら、何か云はうとして、それで調子好く彈んで出てこないやうな、もだ/\した眼色をした。

「一人で歸るのはいやなのですか。」

繁雄は、うなづいてゐた。

「ぢや、お別れのしるしに。」

幾重は繁雄の手を自分の方へひいて、男の方へ顏を振り仰向けた。

「ね、いゝでせう。左様なら。」

幾重は、繁雄と別れて、橋を渡り返した。

 

一人で步いてくると、幾重は今別れた繁雄のことが、ちょっと身に沁みて、その胸からはなれずにゐた。暗い街の灯が、とぼ/\して少し幾重の心が滅入った。

「京子のところーー」

幾重は然う思ったが、さつきほどの熱がおこらなかつた。幾重の殊に氣に入ったあの眼などを思ひ俘べて見たけれども、それに心が惹かれなかつた。京子に逢ひたいと云ふ興味がなくなつてしまつたので幾重は何うしようかとしばらく道の中途で思ひ惑いながら、寂しい思ひをして步いた。

行く道に、踊りの師匠の家があつた。舞臺を踏んでる可愛ゝ足音が、二三人かたまつて喧《やか》しくどた/\してゐた。その音が往來の方に響いてきた。三味線の低い調子がそれに交つてゐた。

幾重はそこから折れて、的《あて》もなしに長い間足に任せて步いてゐた。どつちへ行けば電車の道に出るか分からずに步いてゐるうちに、待合などの軒並みに並んでる綺麗な町へ出た。大きい門の中に植ゑ込みが奧深く見えて、金行燈《かなあんどう》の灯が美しく濡れてゐたりした。どの家も明るく、なまめいた灯が流れてゐた。幌を下げた車がー臺彼方向きにおいてあつた家の門も過ぎたりした。細い路次から、半玉が二人巫山戯《ふぎけ》ながら出てきた。友禪の上に一人は長い羽織を引っかけてゐた。腰高に端折《はしよ》つた赤い褄先きから、塗り下駄を穿いてゐる眞つ白な足袋の恰好が、くつきりと出てゐた。褄と、足袋の甲との間が、毛筋ほどの差で、あざやかに線をきつてゐた。

幾重はその姿を見送りなどして、又、右へ曲り/\した。小さい橋に出た。橋の下に船の蓋をとつたやうな切り窓から、その灯がゆるく漏れてゐた。

幾重はいつともなく、さつき繁雄に別れたところへ出てきた。電車が遠くの方に動いてゐた。幾重は電車の方へ步いて行った。

 

幾重は山の手のある坂を上つて行った。そこいらの邸内や、道の傍に、大きい櫻がちよい/\あつた。櫻は、薄つすりとこまやかに咲いてゐた。空がだん/\に晴れてきた。

小さい溝に、板の橋を渡した兎《と》ある門構への前までくると、幾重は、松の枝に遮られたその家の二階を見上げて立止つた。夜など來ると、よくその二階から琴の音が聞えたのだが、今夜はひつそ隈どつた明りの色がずつと並んだ障子に華々しく射してゐた。

幾重は京子がゐるか、ゐないか、と思ひながら、門のなかに入って行った。鈴《べる》を押しても押しても、いつまでも誰れも出てこなかつた。

幾重は自分で格子をがら/\と開けて、土間に這入った。そこへ、いつもの婆あやが出てきて、

「おやまあ。」と云ひながら、愛想のいゝ顏をした。

「いらつしやるんですか。」

「へえ。」

婆あやは然う云って、膝を突いてゐた。

幾重は上へあがって暗い玄關で、上に着てゐるものを脫《と》つたりした。幾重が來れば、誰れも幾重を京子の部屋へはわざ/\案内しなかつた。幾重は構はずに、そこから廊下をぬけて、奧まつた京子の部屋へそつと步いて行った。

突き當りの丸窓が、薄暗くつて、室内《なか》には誰れもゐないやうに靜であつた。京子はもう寐《やす》んだのかしらなどゝ思ひながら、右に廻ってその入り口の障子を開けて見ると、京子はそこにはゐなかつた。誰れか人が來てゐたやうに、京子の机の横に、客の座蒲團が亂れてゐた。

今にこの部屋へ京子は戻ってくるのだらうと思って、幾重はそこに坐ってゐた。人形やおもちやが整然《きちん》と並んでゐる置棚の前に、小米櫻《こゞめざくら》が挿してあつた。床の間の上に、繪絹を貼った尺五の枠が二三枚立てかけてあつた。

京子のいつも敷いてる友禪の座蒲團の色彩が、こつくりと幾重の眼に映ったので、幾重はやがてその上に行って坐った。繪筆や、畫帖の亂雜に散らかってゐる机の上に、たつたーとつ位置を異《ちが》へてその角のところに置き放しになつてるやうな形で、載つかつてある小形の本があつた。きれいな藤原時代に見るやうな姫が扇で顏をかくしてゐる繪がその表紙にかいてあつた。十二一重《ひとへ》の裾と、下げた髪とが亂れて、赤い色が毒々しく見えた。その上のところに何か洋文字が達者な筆でかいてあつた。

「The irresistible Argument」

幾重はその字を讀みながら、そつと頁を開けて見た。

次ぎ/\と美しい繪が刷つてあつた。「敵しがたき論證」の繪が、白く、赤く、黑く、强烈な色彩が縺れ/\して、描かれてゐた。

帶が解けて流れてゐたりした。女の肉の露な手が空にのびて、何かに絡まってゐたりした。櫻の枝の背景や、燈籠に飛石の庭の圖があつたりした。掛け臺の蔭で、長い袖の中に顏を埋めてゐる美しい娘の、振り下げの鹿の子の帶が男の手の中に亂れてもつれてゐたりした。

幾重は、一枚づつおもしろさうに繰って眺めた。十四五葉で、その繪はおしまひになつてゐた。

見てしまふと、幾重はその本を舊《もと》の通りにして、再び表紙の姫の繪を見返した。さうして、洋文字を又口の中で讀んだ。

「敵しがたき論證。」

幾重はそれを繰り返した。

然し、直ぐに、誰れがこれを持って來たのだらうと思った。さうして、この机の上に乗つてゐるからには、京子はこれを見てゐたに違ひないと思った。

「京子がこれを見た。」

幾重はふしぎな興味にそゝられて、しがらくぢつと、何か心に描いてゐた。

どこからともかく、ふだん京子のきものから匂ってくる香水の匂ひが、あたりを籠めてゐて、それが幾重の鼻にしみた。長い袂や、厚い裾を通して、幾重は京子の肌なぞを空想しながら、又、ばら/\と本の頁を繰った。人間の呼吸がそこから響くやうに思った。

 

そこへ婆あやが茶を運んできた。京子がゐないと聞いて、

「ぢや、お二階で御座いますよ。いらしつて御覽なさいまし。」と云った。

今夜は誰れも家にゐなくて、嬢さんと婆あやばかり留守してゐるところへ、いつも來る原さんと云ふ男のお友達がいらしつた。

「その方とお二階にいらつしやるでせう。」と婆あやは云った。

「お知らせしませうか。」

婆あやは立ち際に斯う云ったけれども、幾重は自分で二階へ行くと云ったので、婆あやは又室を退《さが》つていつた。

これを書いたのは、その原さんだらうと思ひながら幾重は部屋を出て、廊下から二階へあがつていつた。唐紙がぴちんと閉まって、上り口が暗かった。

室内《なか》からその時、低い京子の聲がした。幾重はだまつて、その聲のした方の唐紙をあけて、室にはいらうとした。びつくりして振向いたのは、座敷の隅にうづくまつてゐた京子であつた。原は其の後に手を下げて立つてゐた。

原は眞つ赤な顏をして、立端《たちば》のないやうに、もだ/\してゐたが、京子は直ぐに立つて、膝前などを直しながら幾重の方に向いてよろ/\と步いてきた。おしろいのついた顏が眞つ蒼で、眼ばかり赤くなつてゐた。大きく卷いてる束髪の髷がくづれて前髪から額に輪のやうにかぶさつてゐた。

幾重はなんと云ふ美しい顏だらうと思った。身體ぢうの血を失ってしまつたやうに、京子は眞つ白になつた手を上げて、髪を撫で上げてゐた。脆い花片《はなびら》のやうに、白々と、消えさうになつてゐるその顏のなかに、睫の長いくるりとした可愛いゝ眼が銳く光ってゐた。

「いついらしつて。」

京子は靜に斯う云ったけれども、息が彈んでゐた。幾重は原と云ふ男を見た。原は、座敷のなかに何もないので行き場がなかった。それで障子をあけて廊下の外に出ていつた。髪の長い、眼鏡をかけた、口許に愛嬌のあつた顏が、幾重の眼に殘つた。

「原さん、いらつしやいな。」

京子は然う云っておいて、幾重の袖に手をかけた。

「階下《した》へ行きませう。」

京子は一生懸命な顏をして、幾重に笑って見せた。笑ってゐるうちに、その顏に生きた血が動いてきて、ふつくりした筋肉が柔らかに撓《たわ》んだ。匂ひと、柔らかさと、なよ/\しさとで、京子の小さい身體が、ちょっと觸っても赤い色彩のなかに崩れてしまひさうに見えた。眼が情慾の詩のやうに燃えてゐた。

「美しい顏ね。なんて美しい顏をしてゐるんでせう。」

幾重は京子の顏から眼をはなさなかつた。京子はあわてゝその顏を袂でかくしながら急に階下へおりていつた。幾重は立つた儘で、今、京子のうづくまつてゐた座敷の隅を見た。電氣が疊を平に照らしてゐた。その隅にはなんの影も落ちてゐなかつた。原はいつまで經つても廊下の外から這入ってこなかつた。

 

幾重も階下へおりてきた。京子の部屋へは行かずに、緣から硝子窓越しに暗い庭を眺めて立つてゐた。外はくらくつて、なんにも見えなかつた。こゝにも丁子の匂ひがしてゐた。冷めたく、すつきりと幾重の胸を淸めるやうに、靜に闇の外から匂ってきた。少時《しばらく》して二階から原の下りてくるやうな氣勢《けはひ》がしたので

幾重は入ると直ぐ、机の角のところに眼を送った。本は其の儘になつてゐた。京子は机の上に突つ伏してゐた。肩上げのある荒い絣の羽織の襟が肩から少し落ちてゐた。おしろいのついた頸筋が、後れ毛でぼや/\と埋ってゐた。髪がすつかりくづれて右の耳前髪《もみあげ》の方に落ちかゝつてゐた。

「京子さん。」

幾重が呼んで見ると、京子は直ぐに顏を上げて此方を向いた。その口が子供らしく笑ってゐた。

「氣分でも惡いんですか。」

「いゝえ。」

京子は頭を振って、さうして、机の角の本の表紙をぢつと見守ってゐた。

「お客様がお歸りになりますが、宜しうがざんすか。」

婆あやが障子の外から聲をかけた。

「えゝ。」

意外にはつきりとした大きな聲で返事した京子は、ふと氣が付いたやうに、その本を取って急いで部屋を出て行ったが、直きに歸ってきた。

「The irresistible Argument」

幾重は京子の顏を見ると、かう云って笑った。さうして京子の手を取って、自分の膝の前に引き据ゑた。仆《たふ》れるやうに凭《もた》れかゝつた京子の身體を、幾重は力いっぱいに抱きしめて、その崩れた髪の毛に頰を押し付けた。

「ふるへてるぢやありませんか。」

京子の身體が微に震へてゐた。京子は小さい口を結んで、魂の拔けてしまったやうな眼で自分の膝の上を見詰めてゐた。

「ね、何うしたんです。」

幾重は後ろから、京子の腕をとつて其の身體をゆすぶつた。膝の上に乗せた子供をいとしむやうに、京子の頰に、幾重は頰を寄せた。さうして、こわれかけてゐる髪のピンを一本づゝ拔いてやつた。入れ毛が、幾重の胸の前にずるりと落ちた。幾重はすつかり、その髪をほぐして撫でてやつた。長い髪がうねつて京子の脊中に波を打ちながら垂れた。幾重は、ぢつとしてゐる京子の胸苦しいやうな呼吸を靜に聞いてゐた。さうして、斯うして京子を抱いてゐる自分が、まるで愛の絕頂にあるやうな氣がした。

幾重はどんなにでも京子を可愛がらうと思って身が燃えた。さうして、その irresistance な恐ろしい力に引きずられて、その迷蒙な慾のなかに醉ひしれてゆくものゝ狀態を、ひそかに見守ることのできる畸形な快楽を、幾重はうつとりと夢みてゐた。

京子は幾重を送って外に出た。送ってこなくてもいゝと云って断っても、京子は聞かずに出てきた。髪を下げた上から、漆黑の艶をもつた長いびらうどの襟卷をしてゐた。このびらうどの中から、京子の白い可愛らしい腮《あご》が括《くゝ》れるやうに現はれてゐた。

夜の更けた外が、暗く暖にひつそりしてゐた。柵に添った柳が柔らかに色をかくしてゐた。美しい肉にかくれたある祕密の聲が、この暗い夜のおもてにいつぱいに擴がつてゐるやうに思はれた。

「もう遅いからお歸りなさい。」

「えゝ。いゝわ。」

京子はやつぱり隨《つ》いてきた。夜風の身に沁《しみ》るのが快い心持さうに京子は美しい眼を闇にさらしてゐた。その子供のやうな小《ちひさ》い頰に、蒼い衰弱の陰を微かに漂はしてゐる魅力に幾重は惱《なやま》されながら步いた。

「美しい美しい、ほんとに美しい。」

幾重はふと立止っては、しばらく京子を見詰めてから斯う云った。さうして、幾度も、幾度もその頰に唇をよせた。

「ぢやお歸りなさい。もうこゝまでゞよう御座んすから。」

京子は幾重の顏を見ないで下を向いて然う云った。

「ごらんなさい。こんなに暗いんだから。」

幾重がそこいらを見廻したので、京子も顏を上げてあたりを見た。

「電車が通らないわ。」

京子は坂の下を遙に見て云った。そこに燈火《ともしび》があつた。闇にとざゝれた樹の陰影を受けて、赤い電燈のいろが夢におそはれてるやうな暗い隈のなかに輝いてゐた。