青い三角形部屋

「この異端者よ!」

星の時計の内田善美

※ 2023.4.16 に書いた中国語バージョンを翻訳したものです。

内田善美先生を知ったきっかけは、20世紀の百合漫画を考古する時に読んだ『ひぐらしの森』だった。 主観的に70、80年代の百合漫画は複雑で強烈な物語や批判的思想に長けていて、 同時期に発達してきた少女漫画的表現は勿論用いているものの、とりわけ印象的な表現は少ない印象。 そんな中で、1979年の『ひぐらしの森』は、緻密な情緒を全編に漂わせる独特な表現を前面に出し、 その少女漫画的でない規則的なコマ割りで少女漫画的表現を超越し、自分にかなりの衝撃を与えてくれた。

内田の主人公達の多くは内向きで思い耽ることが多い。 心理描写はストーリーとキャラに対する補足というより、むしろ話の主軸となって、シーンを繋げる形になっている。 例えば Fig.1 の pp.31 で、主人公の萩は沙羅の言葉に心が乱れ、(背景のトーンに表象されている、)極自然に苦悩のモノログに繋がって行ったーー 萩の首のたった一本の線が間白を跨る架け橋となって、視線をスムーズに心理的空間を表象する黒いコマに滑らせ、2つの時空を難なく繋げる。 モノログはpp.32の最後まで続くが、最後のコマの絵は既に翌日の場面だ。 モノログの文面自体は連続的なため、読者の連続的な主観的時間はモノログの「発話」する時間に同期されるが、 物語世界の物理的時間はそれらに対応されずに、断片的に貼り付けらたような構造になっていて、むしろ回想表現によくある形だ。 内田は敢えてそれを通常の叙述に用いて、作品全体に「思い出」と化すフィルターをかけ、喜びを麗しさに、悲しみを感傷に変身させる。

Fig.1 内田善美ひぐらしの森』pp.30-33

内田作品のこういう性格は、正しくその規則的な四角いコマ達に根付いている。 少女漫画は枠線の束縛を突き破り、重層化されたレイヤーからなる非線形的時間性と錯綜な心理状態の表現が特徴としてよく知られている。 たが内田は、規則的なコマで主体である心理描写を実現できた。

内田作品の中では、縦長のコマが多用され、その中は縦横比5くらいの極端的な例も珍しくない。 決して縦長コマが他のマンガで少なくはないが、「コマ」と言われると最初に頭に浮かんでくるのはいつも横長のコマだった。 (自分の映像作品や四コマ漫画などからの視覚的印象が強かったかもしれません。ウェブトゥーンやショート動画で育った新世代は全く逆可能性もあります) ただ横長コマは先天的に、写実的な背景なしの構図を設計するのに難点がある:どアップじゃなければ、必ず横に大きい空白ができてしまう(勿論文字を詰めるのもありだが)。 その空白が一種の表現として成り立たないというわけではないが、表現のバリエーションが限定されてしまう。 相対的にキャラ図像の割合が小さくなるため、横方向上の「位置」という特徴だけが目立ち、他の表現(絵自体の表現や上下配置による表現など)を抑圧してしまう。 考えれば極簡単なことではあるが、人間の体は縦長であるため、縦長のコマがよく似合うーー 均衡的に上下配置と左右配置を扱えるし、絵自体の割合が多くなるし、文字を詰める必要もない。

Fig.2は一番直感的でわかりやすい例だ。 萩の図像がコマにおける大きさ(ショートタイプ)と配置が情緒に応じて変化するのは一々説明するまでもない。 特に、片方の目や体を枠外に隠すような配置は、縦長コマにおいてとても自然である。 横長コマだったらどうしてもそのアンバランスが気になってしまい、その場合は文字を詰めてバランスを取るケースが多くなる。 しかし文字の持つ視線への特権的な吸引力は、構図自体の表現力をまた抑圧してしまう。

Fig.2 内田善美ひぐらしの森』pp.18-19

比較に露骨でない例Fig.3を見てみよう。まずは右ページの3コマ目。 非常識で何でも聞きたがりであったが突然自分で考えることを始めた「猫」という名の女の子を見て、 元々ツッコミ役の「草」という名の男性は枠の外側にほとんどの顔を留め、猫を見守る姿勢がよく分かる。 続いて下段の3コマで、猫の身長はコマの高さに合わせられたが、足だけが枠外に残っている。 そして猫は草に「19(歳)」への憧憬を伝えると、左ページの2コマ目では頭だけが上の枠線についていて足が宙吊りな状態になる。 まるで大人になりたくて、大人の椅子に座ったら足が地につかないような、絶妙な表現ではなかろうか。

Fig.3 内田善美草迷宮・草空間』pp.174-175

前景化された情緒の流れの中で、構図によって表情が付与されたコマは絵を超えて心理的な記号となる。 (Lineなどで使われるスタンプが近いかもしれない。) 特にキャラの仕草と表情が細かく描かれ、コマを大きく占め、余白が喚起する物理的な空間の感覚と、文字という特権的な記号による相対化を抑圧する場合は顕著である。(内田の描いたキャラの控えめの表情にとっては構図の重要性はなおさらである。)拙作『芸術点最高の百合漫画 内田善美「ひぐらしの森」 - 青い三角形部屋』でも取り上げた例Fig.4ほど絶妙な例はないであろう。

Fig.4 内田善美ひぐらしの森』pp.10

中学の卒業日と高校の入学日にまだ名前も知らぬ沙羅を見かけて密かに惹かれた志生野が 初めて教室に入り、沙羅が一緒のクラスにいることを知った時の描写である。力入れて細密に描いた沙羅の美しさを、二重線が額縁のように働き一層強調し、志生野の目に刻み込んだのである。 「絵のような美しい人」という比喩表現をこうも簡単に成し遂げる方法は他にあろうか。 さらに絶妙なのは、3つのモノローグ「どうしよう」の間に配置されたこの2つの絵は、 まさに志生野の中から見た沙羅の印象であり、「美しい」という印象を表す「単語」と化したように感じた。 マクラウドは Understanding comics で、絵と文字の間にある記号性の軸を論じた。 それはあくまでも見た目上の写実性と抽象性を基準にしているように見えるが、 ここはむしろ心理的に、同一化で美しいという印象を読者にも感じさせ、純粋の絵に二重線で印象を単語に包装し、文字のモノローグに織り込むのだーー 「……どうしよう…」「あの人が…」「どうしよう」「あの美しい人が…!」「どうしよう」と、言わんばかりに!

このような記号化されたコマは叙事の部分にもところどころ挿入される。 シーンが心理活動の主軸に付着しているとすれば、これらのコマはアンカーであり、 物理的空間と心理的空間はそこに交差する。 Fig.5で、突然姿を消した友人を一心に探そうとする主人公蒼生が描かれる。 白と黒の背景の意味は言うまでもないが、その切替に注目してもらいたい。 左ページの中段の1コマ目の母が白い背景にいるのに対し、2コマ目では蒼生が黒い闇に溶けつつある。 そして3コマ目はまさに母が発する「文字」を完全に拒絶する表情としてコマであり、情緒の記号である。 下段の1コマ目もそうであるが、母は闇を感じつつも依然として白い背景に位置する。 そして2コマ目で蒼生は現実に戻り出かけることを伝えると、最後のコマで、蒼生は前とほぼ同じ姿勢で黒い背景の中に入る。 この2コマで、蒼生が物理的に移動したかどうかは知るすべがないーーもしかしたらほぼ移動しておらず黒い背景が母を遮蔽しただけかもしれない。重要なのは、3コマ目がアンカーとして、歩き出す姿勢を手がかりに2コマ目の物理的空間と繋がる同時に、黒い背景で心理的空間に切り替え、右ページの心理描写に繋がることである。完全に心理的空間に入った右ページの上段だからこそ、モノローグと記号化したコマとの同時出現は自然である。中段がどのように現実戻るのもまた面白い。

内田の最高傑作で唯一の長編作である『星の時計のLiddell』は人間関係や感情だけでなく、より抽象的で壮大なテーマを扱っているため、具体的で詳しい会話が多くなったが、記号化したコマは依然としてところどころに織り込まれ、情緒を凝縮しリズムを生み出す。 その一例が Fig.6の左ページの最後のコマである。中段の左コマと比較すれば分かるように、肩がコマに入る同時にコマ自体も細くなり、目が半分枠を出るように女性が圧迫された。その右にあるのは多少位置が高くて、スペースにもっと余裕のある男性の顔だ。

Fig.6 内田善美星の時計のLiddell』1巻 pp.150-151

そして本作で多用された特徴的な表現として、同じアングルと主体の三連続コマがこの2ページで3回も使われた。 現代にデジタルで制作したマンガには、よく映像のFIXショットを模した連続的なコマはよく見られる。 余談だが個人的には、そのほとんどが漫画独自の性質を理解せずに映像中心主義による拙劣な模倣だと、 かなり嫌いな表現ではある。その詳細の理由はまた別の文にしよう。 ただし内田の三連続コマは普通に呼んだ時にそんな映像的なイメージは一切浮かばなかった。 原因もまた明白である。3つのコマは基本的に構図も表情もコマの幅自体もそれぞれ違い、とても映像みたいな同じフレームの中で連続的に切り替わるものとして認識できないのであろう。

では、この三連続コマが映像を模したことで連続的な物理的時間を作り出すのじゃなければ、何の表現だろうか? 一旦Fig.5の左ページの最後の2コマを振り返ってもらいたい。蒼生が物理的に移動したかどうかはわからないが、重要なのは「紙面」上、蒼生は母を後にし黒闇に「移動」したということだ。 そうだ、三連続コマは3つ合わせて1つの運動を生成しているのだ。 その運動のありかは物理的空間ならぬ紙面上に生まれた心理的空間である。

伊藤剛は「フレームの不確定性」と「上位コマ」を提案しました(その階層的構造自体は少々堅苦しいものではあるが)。その発見は漫画表現論での相対性理論といっても過言はないほど、漫画表現論の新天地を拓き、野田謙介などたくさんの研究者に発展されてきた。拙者も『マンガ表現の連続的空間(前篇) - 青い三角形部屋』において、より一般化した「フレーム」(=絵として認識する範囲)を考察し「注意単位」という概念を提案しました。ただし、それらの研究に取り上げられた例は、枠線を突き破るキャラやスタイル画など多少メタ的でパターン化したものが多く、個人的にしっくりこないものばかりである。しかし内田の表現は非常に自然的でありながらも奥深くて広がりのある可能性をを見せてくれたのだ。

各コマは各自の映射関係(数学的にもっと明確に言えば「変換行列」)で同じストーリー世界の物理的空間を紙面空間に映射する。 ページのレイアウトと読み順のルールによって、紙面上に無数の潜在的な注意単位を生成し、 読者の視線と注意範囲は動的に運動し、それらと必ずしも一定しない序列で遭遇する。 紙面は読者が「読む」という心理的行為の場であるならば、フレームの不確定性によって顕在化される紙面空間は心理表現に適応する心理的空間になるのは自然ではなかろうかーー内田の表現はそれを見事に実現した。

Fig.7で、仮死状態から目覚めてもまた夢の中に戻りたがっている黒髪の男性「休」と彼を見守る主人公「ウラジーミル」が描かれている。 上段では、ウラジーミルの目と休の目が物理的にも紙面上にも合っているが、下段の2コマになると、休は目を閉じて「顔を逸した」。 しかし上下コマの休の姿勢をちゃんと見比べれば分かるように、休の顔の向きは基本的に変わっていないーーウラジーミルと向き合っているはずだ。 しかしグラデーションの背景によって下段の2コマは1つのフレームと成し、それで作られた心理的空間の中では、 ウラジーミルは休を関心の目線を注ぐが、休はそれを拒絶するように身を沈め、「顔を逸した」。 完全に異なるアングル(映射)の物理空間が、背景のゲシュタルトによって、こっそりと1つ連続的な心理的空間をできたのだ。

Fig.7 内田善美星の時計のLiddell』1巻 pp.31

紙面という心理的空間の上で、視線の行き先が心の行き先である。 物理的空間の合理性を捨てた Fig.8はその証拠の一つである(『芸術点最高の百合漫画 内田善美「ひぐらしの森」 - 青い三角形部屋』にも似たような例がある)。 左側がシーンの始まりに見せた写実的な全景で、その後右のコマ達が描かれた。 物理的に見れば、ウラジーミルと休の体の向きは近く、ウラジーミルが真正面を見ると視線はモブの女性もしくは無人の方に当たるはずだ。もし映像的な考え方で分析しても、アングルの取り方が難解だ。 ただし、実際左のシーンを読んでから5ページ後の右3コマを読んだ時に、以上の物理的空間の不自然に気づく読者はいないだろう。 つまり、前述記号化されたコマ3つでなされたこの段は正しく心理描写の段落であり、それにおいて物理的空間はさほど重要ではなく、むしろ紙面空間・心理的空間が重視されるべきだ。 女性葉月とウラジーミルは心配で休を見つめるが、休は夢と死の世界に一心で二人に背を向けた。

Fig.8 内田善美星の時計のLiddell』1巻 pp.46, 51

さて、Fig.7とFig.8で心理的空間での静的な構図による表現を論じたが、まだ「運動」については話していない。 紙面上に婉曲の時間軸が流れた、読む行為が動的であることを忘れてはいけない。(この意味では紙面空間というよりも紙面時空と言ったほうが正しいである。) 読む行為が心理的運動であるように、コマが心理的空間で構築した連続性も無論心理的な運動である。 Fig.9はストーリー的にも表現的にも読者を戦慄させる1ページである。 下段で、連続した拡大するウラジーミルの2コマが加速器のように、読者の注意をウラジーミルの視線と合わせ、強力に左端のコマへ、恐ること皆無でむしろ意気揚々で死に征く休の顔へと誘導する。

Fig.9 内田善美星の時計のLiddell』2巻 pp.106

竹内オサムは映像理論から「同一化」という言葉を借りたが、ここでは漫画特有の「同一化」が現れた。 読者の視線運動(心理的運動)が、紙面という心理的空間でキャラクターの(心理的意向を示す)視線と重なる時に、より確実な「同一化」が実現するのだ。 Fig.9での運動の行き先に、休の決意の視線と鉢合わせ、映像のように1つ1つ切り替わる様子を想像するよりも、最も直接な衝撃るが与えられる。 なぜかというと、この同一化は、紙面平面と別次元に位置するカメラを仲介するなく、読者とキャラクターの心理的運動の同調から直に由来するからなのだ。

そしてフレームの不確定性により、時空の断面じゃなく、持続=運動の全体を同時に見せることが漫画にはできる。 上記三連続コマがそうだし、その変化形のFig.10はその独特な性質を用いる表現の可能性を見せる天才的な一例である。

Fig.10 内田善美星の時計のLiddell』2巻 pp.140(実は左上のコマと右下のコマがちょうど連続した物理的空間で、二人が見つめ合うようになっている。とんでもない形の「フレーム」だ。)

ウラジーミルの引き止めに、無言の休が左下へ縮小しながら沈んでいく様子が返事となったーー この運動は紙面時空上に軌跡を描き、しかしウラジーミルの下に向く視線と縦に立てた腕はそれに交差するしかできないのだ!

高橋明彦は『コマとアリストテレスの運動イメージ』でコマの異時同図について以下のように述べたが、 フレームの不確定性によって、フレームにも言えるであろう。

瞬間や同時性とは、複数の個物がそれぞれ有する持続が交差することによって顕在化した時間であり、(略)あたかも点であるかのようにみなされる(略)。

休が夢の中で時空を超えて19世紀の天使のような女の子Liddellと出会ったように、 私の意識も視線という形で紙面の時空を巡り巡って、天才の内田善美と出会い、帰ることを忘れたのだ。

余談

自分もこれらの表現を応用して「」という漫画の第2話を描いたので、よかったら読んでみてください。 https://nikukikai.art/#/null2